6月5日 貴重書架1
――6月5日
開館時間の10分前、図書館に到着した。
入り口には開館時間の札が掛けられ、扉はまだ閉まっている。
館内では、グレイス館長や研修中の司書たちが、開館の準備をしているはずだ。
近くに数台の馬車が停まっているのが見える。
すでに開館を待っている人達かもしれない。
入り口の薄ガラス越しに中を覗いていると、誰かがこちらに向かってくるのが見えた。ダークブラウンの髪に上品な深緑のドレス。セレーネだ。
覗いているのが俺だと気づいたのか、セレーネは少し駆け足になり、扉を開けてくれた。
「ごきげんようルドウィク、今日は早いのね」
「やあセレーネ。演奏会では大変だったね、あれから大丈夫だった?」
「ああ。もう全然平気よ、ありがとう。あ! でも、私のせいでルドウィクの上着を濡らしてしまったんだわ、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。本当に何事もなくてよかった」
図書館の廊下を歩きながら、セレーネの元気な声を聞いてホッとする。
これからアレシアと話すことに少し不安があったが、ここにはセレーネや他の人たちがいる。そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
「今日はお仕事?」
「仕事というか、貴重書架の鍵を開けに来たんだ。ほら、アレシア・カトラン。彼女が開架を申し込んでくれてね。それで鍵を持ってきた」
「まあそうなの。アレシア、遠い国から来てるものね。とても勉強熱心で凄いわ」
「……そうみたいだね」
アレシアとセレーネは、初日にここの案内をして以来、仲良くしているようだった。セレーネならきっと良い関係を作れるだろう。しかし、リュシエンヌを紹介するのは、当分先にしてほしい。
「じゃあルドウィク、私は戻るわね。彼女は開館と同時に来るはずよ」
「ありがとう。セレーネ」
「どういたしまして」
軽くお辞儀をすると、眩しい笑顔を見せてセレーネは去っていった。
気が強そうに見える彼女だが、とても知的だ。リュシエンヌの一番の親友で、男性達に人気があるのもよくわかる。
演奏会の後、クリストフと彼女の仲に何か進展はあったのだろうか。
次に会うときには、良い話が聞けることを期待しておこう。
歴史書架の前に来ると、並んだ机が目に入った。
真っ黒な革張りの椅子は、鋲で留められ、きちんと整頓されている。
背もたれに手を触れてみるが、インクどころか、ほこりさえ付いていなかった。
たしかにこの真っ黒な革なら、インクを塗られても見落としてしまいそうだ……。
その時、入り口の扉が開く音が聞こえた。開館時間だ。
一番最初に入ってきた白髪の女性は、キャスリン夫人。
大変な読書家で、使用人に選ばれるのはつまらないと、何年もの間ここに通っている。背筋の伸びた立ち姿は見習いたいものだ。
その後から、真っ白なワンピースドレスを着たアレシアが、少し多めの荷物を抱えて入ってきた。
いつも白い装いだというのは本当のようだ。。
しかし、さすが一国の王女というべきか。姿勢の良さと歩く姿は、それだけで目を惹くほど洗練されている。
アレシアは、まっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。
とても嬉しそうな表情で、なぜか手を振っている。
心臓がドクンと跳ねる。
なぜ、俺に手を?
訳が分からず固まっていると、ふと彼女の視線が自分ではない方へ向いていることに気づく。
振り返れば、本棚の間からセレーネがアレシアに向かって手を振っていた。
ああ、なんだそういうことか……。
そう思った瞬間、全身がじっとりと汗ばむのがわかった。
今日は貴重書架を開けるだけ。よくある仕事だ……そう思って来たはずなのに。
俺が彼女を意識しすぎている……。
アレシアは何もしていない。
リュシエンヌが、俺と彼女に嫌な思いをさせられた……しかしそれも現在の話ではない。
俺が勝手に、彼女に警戒心を抱いているだけだ。
こんなことアレシアが知ったら、迷惑な話でしかないだろう。
だからこそ、普通に振る舞わなければいけない。
手を振りながら歩いてくるアレシアが、こちらに気づいたのか目を見開いた。
照れくさそうに右手を下げると、足早に俺の前まで近づいてくる。
深々と頭を下げる彼女に、同じように頭を下げた。
「おはようございます、アレシアさん」
「ごきげんよう……あの、エルネスト家の方ですよね?」
アレシアは少し不安げに顎を引き、大きな緑の瞳を瞬かせた。
「はい、わたくしはルドウィク・エルネストと申します。カトラン子爵からアレシアさんが貴重書架の本をご覧になりたいと連絡をいただき、本日参りました」
「ご丁寧にありがとうございます……あのアレシアでいいですよ。あと、そんなに固い話し方なさらないで」
困ったように笑う彼女に、返す言葉を探しながら「はい……」とだけ答える。
とはいえ、友人たちのように呼び捨てにするのはどうにも難しい。
どう返答すべきかを考えていると、目の前にいたアレシアが一歩こちらに近づいた。 清らかな花の香りが、ふわりと二人の間に広がる。
「あの……わたくしのことお聞きになってると思うんですけど、普通にしてくれて全然大丈夫なので。お願いします」
「わかりました。でも、名前の呼び方はこのままでいいですか? アレシアさん」
「はい、大丈夫ですルドウィクさん」
アレシアは一歩下がってにっこりと微笑んだ。
そのような動き一つにも無駄がなくしなやかだ。
実際に話してみると、物腰が柔らかく、不快な印象は全く受けない。
リュシエンヌがいうように、魅力的であるのは間違いないだろう。
ただ、好きになるかといったら全然違う。タイプは正反対だが、セレーネと同じだ。美しく魅力的ではあるが、とうてい愛には変わらない。
「では、アレシアさん。もう、貴重書架に行きますか?」
「はい、よろしくお願いします」
「少し離れた別館になるので、付いてきてください」
アレシアは大きく頷き、軽く会釈をして俺の後ろに並んだ。
受付の横から歴史学の書架を抜け、突き当りの道まで進む。
右には教会へ続く参道への扉、左には別館の廊下に続く扉があった。
樫の木で作られている重厚な扉には、文学の神が彫刻されていると言われているが……実は当家の一代目だ。
「素敵な扉ですねー」
「ありがとうございます」
鍵を回すと、扉が僅かに軋む音を立てて開いた。
樫の扉の先は、中庭が見えるガラス張りの渡り廊下が別館まで続いている。
朝の光が差し込み、石造りの本館とは雰囲気がまるで違う。
「この廊下の突き当りが別館になっています。本館は昔に建てられたものですが、こちらの別館は貴重本を所蔵するために近年建てられたものです。クラルハイト石がないため木造で、中は薄暗くなっています」
「まあ、そうなんですね。本館は本当に素敵で! あそこに住みたいくらいです」
「あの石の図書館は我が国の国宝ですね、さあどうぞ」
別館の鍵を開け、重い扉を開いた。
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