6月3日 演奏会1

――演奏会当日


 透き通るような青空に薄い雲が流れていく。

 晴れてはいるが、少し風が強い日だ。


 毎月初め、元宮廷音楽家で音楽教師でもあるヴェーバー先生の屋敷では、生徒たちの親睦会が開かれる。親睦会の後には演奏会があるが、「会」と銘打たれているだけで、特に大掛かりなものではない。先生からピアノや弦楽器を習う子女たちが、日頃の練習の成果を披露する場だ。

 これもまた、若い貴族たちの交流の場の一つとなっている。

 

 俺も幼い頃に少しだけ弦楽器を習ったことがあるが、自分にはまったく才能がないと悟り、すぐにやめてしまった。そのため、ヴェーバー邸へ足を運ぶのは久々だ。 

 昨日、リュシエンヌに演奏会へ一緒に行くことを伝えた。 送迎に馬車を出すことも約束し、今、その馬車の中にいる。


 今日の彼女は、淡いミントグリーンのドレスを着ていた。編み込んだ髪に同色のリボンが結ばれていて、とても可憐だ。

 馬車がヴェーバー邸へ近付くにつれ、さっきまで普通に会話をしていたリュシエンヌが、また落ち着かない様子を見せはじめた。


「リュシ、大丈夫だよ。何があってもアレシアに近づかないようにすればいい。あと、配られる楽譜は俺が受け取るよ。君は座ったままでいて」

「ありがとうルド」

「ところで、今日ピアノは弾く?」


 俺の問いかけに少し考えた後、リュシエンヌは首を横に振った。


「課題曲はわかってる。実は前回のこの日、初めてまったくミスをせずに弾けたの。でも、今日は楽譜だけもらって弾かないわ。自分でも未来を変えていかなきゃね」


 肩を少し上げて微笑む仕草が愛おしくなり、そっと手に触れる。

 

「凄くいい考えだ。でも、ピアノが聞けないのは残念だから、今度二人の時に聞かせてくれるかい?」


 リュシエンヌは俺の手を軽く握り返しながら、こくりと頷いた。


 いつの間にか馬車は、楽譜を模した真っ白なヴェーバー邸の門をくぐっていた。

 噴水がある庭園には、既に多くの生徒達が集まっている。

  二人で馬車を降りて庭へ進むと、こちらに向かって手を振るセレーネの姿が見えた。


「リュシおはよう! ルドウィクまで一緒にどうしたの?」

「ああ、この後リュシと食事をする約束をしているんだ。午前中は特に予定がなかったから、久しぶりに皆の演奏を聴きに来たよ」


 セレーネの隣にはクリストフが座っていた。いつもより洒落た格好をしているのが一目で分かる。


「まあ素敵ね。一緒に行きたいけど……お邪魔かしら?」


 セレーネの言葉を聞いたリュシエンヌは、俺の瞳を見つめながら頷いた。

 そして何か言いたげに、視線を横へちらちらと動かす。

 その方向へ目を向けると、クリストフが俺に向かって必死で目配せをしていた。


 クリストフはセレーネに好意を寄せている。

 近々、マルセル家に婚約の申し込みに行きたいと相談を受けていた。

 本当はこの後、食事の予定なんてない。ここに同行するためのちょっとした噓だったのだが、せっかくのこの機会、友人の気持ちを台無しにするわけにはいかないだろう。


「全然かまわないよセレーネ、多いほうが楽しい。クリストフも、もちろん一緒に行くよな?」

「え! 本当!」

「もちろん行くよ!」


 セレーネとクリストフが同時に声をあげ、二人とも照れ笑いを浮かべた。

 そんな様子を、リュシエンヌが嬉しそうに見ている。

 四人で食事をするなんて、彼女の未来にはなかったことだ。

 これは、期待以上の展開だ。


 気付くと、ヴェーバー先生が両手に楽譜を携えて、噴水近くのテーブルに座っていた。幾人かが、先生と談笑をしながら楽譜を受け取っている。


 そのすぐ近く、噴水の真横のテーブルにアレシアが座っていた。

 一人で本を読みながらお茶を飲んでいる。

 周囲には、声をかける機会をうかがっているのか、、彼女を見つめる多くの男性陣の姿があった。

 

 これは、好都合な状況と言える。

 万が一、楽譜が噴水に落ちたとしても、周りにはたくさんの証人がいる。

 リュシエンヌが彼女に近づきさえしなければ、絶対に大丈夫だ。


「リュシ、俺はヴェーバー先生に挨拶をしてくるよ。楽譜ももらってくるから、ここで待っていて」

「まあ、私の親友の婚約者さんは優しいわね」


 冷やかすように言うセレーネに、クリストフが慌てたように俺の横に並んだ。

 その姿を見てセレーネがフフッと笑う。


「やだ、クリストフったら。私が楽譜をもらってくるから、あなたはリュシのナイトをしてあげて。ではルドウィク、行きましょ」


 セレーネは、褐色の大きな瞳でウインクをすると、リュシエンヌに手を振りながら噴水に向かって歩き始めた。

 顔を真っ赤にしているクリストフの横で、リュシエンヌも手を振り返している。

 

 大丈夫だ、きっと何も起こらない。

 そんな確信を持ちながらセレーネの後を追いかけた。


 ヴェーバー先生の近くまで来た時、本を読んでいたアレシアが、ふいに顔をあげた。

 それに気づいたセレーネが、笑顔で挨拶をする。

 応えるように手をあげたアレシアは、そのまま視線を俺に移した。

 

 これは、無視するとかえって不自然になってしまう……。


 仕方なく会釈を返すと、彼女は少しだけ目を細めて微笑んだ。

 その姿に、近くにいた男性陣から溜息のような声が上がる。

 ただ微笑んだだけなのに、周りのアレシアに対するのぼせっぷりが呆れるほどで、少しだけ彼女に同情する。


 前を見ると、メイベルとリサが楽譜を受け取っているところだった。

 その後ろから、セレーネが二人に話しかけている。


 ……たしか、リュシエンヌの手紙には、楽譜が濡れたのはアレシアだけではなく『メイベル』『リサ』『セレーネ』も……と書いてあった。

 まさか、これから何か起こるのか?

 不安が胸をよぎり、思わず周囲を見渡した。

 だが、特に変わった様子はない。

 楽しそうにお喋りする三人の背中を凝視していると、ヴェーバー先生が俺に気づき、笑顔で手招きをした。

 セレーネ達三人は、楽譜を手にしてアレシアがいる噴水へと歩いていった。


「まあまあルドウィク・エルネスト。ごきげんよう、何年ぶりかしら?」

「ヴェーバー先生、お久しぶりです。10年以上は経っていると思います」

「あら、そんなに前のことなのね。今日はどうなさったの? また習いたくなった?」

「いえいえ、自分には全く才能が……」


「きゃあっ」


 突然、背後から誰かが叫ぶような声が聞こえた。

 それに続くように、水の跳ねる音と数人の悲鳴があがる。

 声の方向に振り返ると、噴水の中に浮かぶ数枚の楽譜と、呆然と立ち尽くすメイベルとリサの姿が見えた。

 その横には、噴水の縁に倒れかかるようにして、セレーネが座り込んでいる。


「セレーネ!」


 慌てて駆け寄り、手を差し出す。

 セレーネの髪は濡れ、右腕はまだ噴水の中に入ったままだった。

 白いドレスが肌に張り付き、わずかに透けている。

 急いで上着を脱いで、セレーネの肩にかけた。


「ありがとう……」

「大丈夫か? 何があったんだ?」

「ちょっと、躓いちゃって……」


 眉を下げて笑うセレーネの目の前に、唐突に腕が伸びてきた。

 その真っ白な細い手は、刺繍の入ったハンカチを差し出している。


「よかったらこれ……」


 聞きなれないその声にゆっくり振り返ると、そこにはアレシアが立っていた。


「ありがとうアレシア」


 セレーネは笑顔でハンカチを受け取り、顔についていた水滴を押さえている。

 その時、庭園の向こうから、人の間を縫うようにしてクリストフが駆けてくるのが見えた。


「セレーネ、大丈夫かい?」

「ええ、平気よ」


 クリストフの手を借りてセレーネは立ち上がり、皆に向かって頭を下げた。


「お騒がせしちゃってごめんなさい。ちょっと足を滑らせただけだから気にしないでください。ほらこのとおり、怪我もありません」


 セレーネは上着を押さえながら、その場でくるりと回って見せた。

 いつものセレーネの明るい笑顔に安心したのか、周りは心配そうな様子を見せながらも、すぐ元の空気に戻り始めた。


 しかし、俺の頭の中は疑問しかなかった。

 一体どういうことなんだ? 

 本来なら、アレシア達の楽譜が噴水に落ちるはずだった。

 なのに、セレーネが水に濡れ、アレシアには何も起こっていない。

 それどころか、彼女は楽譜さえ手にしていない……。

 これは、未来を変えようとしたせいで起こってしまった事だというのか? 

 

 沈んだ楽譜を眺めていると、ヴェーバー先生の侍女がブランケットを持ってきてくれた。セレーネはそれを羽織り、俺の上着はクリストフから返された。

 

「ルド、俺彼女を送ってくるよ」

「そうだな、それがいい」


 クリストフは、セレーネを包みこむように寄り添っている。


「ごめんねルドウィク。食事はまたにしましょう」

「あやまらなくていいよ。早く帰って体を温めないと、風邪をひいてしまう」

「うん」

「じゃあまたな、ルド」


 まるでナイトのようにセレーネを支えたクリストフは、力強く手を振りながら二人で庭園を去っていった。

 気付けば、辺りの人達も席を立ちはじめている。

 各自が楽譜を手に持ち、演奏をする為の移動が始まっていた。


 そうだ、リュシ!!


 慌てて元いたテーブルを見ると、呆然と立ち尽くすリュシエンヌの姿が見えた。

 きっと不安に違いない。早く彼女の元へ戻らなければ。

 

 上着を腕にかけ、足を踏み出そうとした瞬間、同じように立ち尽くすアレシアの姿が目に入った。

 日の当たらない場所にいるが、それでも周りの人に比べて真っ白だ。

 この白さだけでも注目されるのは仕方ないのかもしれない……。

 しかし、彼女は何を真剣に見ているのか?

 

 遠くを見るような彼女の目線を辿ると、その先にはリュシエンヌがいた。

 アレシアはまったくの無表情で、なぜかリュシエンヌのことをじっと見つめていた。


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