5月31日 エルネスト家5

 ペンを片付け、ティーポットから新しいお茶を注いだ。

 リュシエンヌは、婚約破棄証明書を大事そうに箱に仕舞っている。

 新しく淹れたお茶の横に、ベルガモットシロップ漬けの氷砂糖を置いた。


「まあ、なんていい香りなの」

「ヨハンの故郷のものだそうだ。紅茶に入れると、たまらないくらい美味しくなるよ」

「楽しみだわ」

 

 リュシエンヌは瞳を輝かせながら、氷砂糖をカップに入れ、くるくる揺らしている。

 そして、目を閉じて香りを楽しむように紅茶を口に運んだ。


「美味しい!」

「よかった……それでリュシ、実は俺はまだ気になっていることがあるんだ」

「ん? 何?」

「ほら、君が……俺に色々と責められたように言ってたじゃないか。噴水やパーティでの揉め事? 他には扇子がとか……」

「ああ、ええ……」


 丸い額にまたぎゅっと力が入り、眉が下がった。


「どうしてもそれが納得できないんだ。リュシ、君が何もしていないのは分かっている。なのに、俺はそれらを理由に君を貶めた……あまりにもおかしいだろう? この不自然な状況の裏には、他の何かが関わっているとしか思えないんだ」

「……」

「だから、本当に悪いんだけど……俺が君に対して何を言ったのか、それを覚えている限り教えてほしい。つらいのはもちろん承知だ、でも……」

「それをまた、書き出せばいいってこと?」


 美しい灰青色の瞳が、ルドウィクを真っ直ぐに見つめる。


「うん。君には心当たりがないのに、俺が一方的に責めた。そうなると、俺だけに何かが起こっている可能性が高いと思うんだ。先にそれを知っておくことで、原因を突き止められるかもしれない……駄目かな?」

「そうね、そうかも……わかった、思い出してみる」

「ありがとう! 君に二度と悲しい思いはさせないから!」


 思わず力が入り、テーブルに強く手を打ち付けた。

 その振動で、山盛りに積まれていたクッキーの山が崩れ、目の前の皿に滑り落ちるように散らばった。

 それを見たリュシエンヌは、楽しそうに笑っている。


 やはりこの問題は、俺自身が引き起こしているのではないだろうか。今、二人の仲は良好だ。

 アレシアのことを好きにならなければ、何事も起こらない……でも、そんな単純なことなのだろうか。


 そういえば、そのアレシアが明日やってくるのか……。


「リュシ」

「ルド」


 二人で同時に声を上げた。

 きっとリュシエンヌも、明日彼女が来ることを思い出したのだろう。


「わかってるよリュシ、明日のことだろ?」

「ええ、私はセレーネと図書館で調べ物をする約束があるの。前の時は、私が図書館に行った時刻にはもうあなたがいたわ……そこに館長のグレイスさんと彼女が現れるの」

「多分、今晩の食事で父から彼女のことを頼まれるんだろうな……前回は『俺が案内する』なんて言ったみたいだけど、俺は何もしないよ。これで一つ解決だ」

「でも……」

「リュシ、さっき言ってくれたじゃないか『今は信じてる』って」

「あ……」


 リュシエンヌは身をすくめながら「もう」と言って眉を下げた。

 彼女はアレシアのことを気にしているが、どんなに美しくてもリュシエンヌに敵うわけがない。

 ましてや嫌いになるなんてありえない。

 だからこそ気になるのは、俺が彼女に言ったという『暴言』だ……。


 ――ボーンボーン


 部屋に飾られている柱時計が時を告げた。

 いつの間にかこんな時間だ。これ以上遅くなると、パーヴァリ家に心配をかけてしまう。


「リュシ、遅くなってしまった、すまない」

「ううん、突然変なこと言い始めたのは私だもの……さっき言ってたあれ、今晩書き出してみるわね」

「無理を言うけどお願いするよ。もし、思い出している途中で腹が立って仕方なくなったら、明日俺に何をしてもいいから!」

「ふふ、大丈夫よ」


 リュシエンヌは静かに席を立つと、ちょこんと頭を下げた。

 そして、テーブルの上の天鵞絨の箱を大事そうに胸に抱えた。


「ルド、今日は本当にありがとう。私の話を信じてくれて……とても嬉しかった」


 微笑む彼女の長い睫毛が、美しい瞳に影を落とす。

 その表情の中には、僅かに不安が残っているように見えた。


 そうだ、まだ何も始まっていない。何かが始まるのは明日からなんだ。

 俺が彼女を守らなければいけない。

 アレシアについては、父から国王の縁者と聞かされた手前、接触しないわけにはいかないだろう。でも、それ以外では一切関わり合いは持たない。

 きっと、いや絶対に大丈夫だ。


 帰り支度をすませたリュシエンヌの手を取り、扉へ向かう。

 その時、タイミングを見計らったかのようにノックの音が聞こえた。

 返事をしながら扉を開けると、笑顔のヨハンと、その後ろにパーヴァリ家の御者が立っていた。


「ルドウィク様。そろそろリュシエンヌ様の、お帰りの時間でございます」

「ありがとう。ちょうど彼女を送ろうと思っていたんだ」


 ヨハンに応えながら一歩踏み出そうとした時、リュシエンヌの手がするりと離れた。

 彼女は一人で廊下へ出てしまう。

 

「あれ?」

「ルドありがとう。見送りはいいわ」

「でも……」

「明日も会えるんだし、早く帰ってやらなきゃいけないことあるから」


 リュシエンヌは、胸に抱えた深緑色の箱を御者に渡し、くるりと俺に向き直ると美しいカーテシーをした。

 ヨハンも御者も、目を細めてその姿を見ている。

 こんな雰囲気の中、無理について行くほうが空気を悪くしてしまう……仕方がない。


「わかった、では明日に」

「ええ」

 

 微笑むリュシエンヌと俺の顔を交互に見て、ヨハンがさっと腕を出した。

 

「では、リュシエンヌ様。わたくしめが馬車までエスコートさせていただきます」

「まあ嬉しいわヨハン! そうそう、今日のパイ! とても美味しかったわ!」

「おお、それはそれは……」


 二人の楽しそうな声が、廊下の向こうへ消えていく。

 静かになった部屋で一人、ソファに腰を下ろした。

 途端に全身の力が抜け、そのまま沈んでしまうような感覚になる。

 

 早く明日がくればいい。

 俺はアレシアなんて少しも興味がない。それを目の前で証明できれば、リュシエンヌの不安を少し解消できるだろう。


「俺がリュシを守る……」


 確認するように呟きながら、目を閉じた。

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