第二話 きっかけ
それに気が付いたのはこの子が来てすぐの事だった。
教育係と共に席へ着く。
僕の隣だった。
視線を、向ける。長い髪を後ろで一つに結んでいる。
大きな瞳。少し小さめの体。好奇心が強そう。きょろきょろと視線だけで辺りを見回している。
挨拶された。
「初めまして。山岡雪乃です。本日からよろしくお願いいたします」
はきはきと、しゃべる。
感じのいい子だな、と思った。
「こちらこそ。僕は里脇慎吾です」
席に着く。
社内は空調が効いている。空気の対流に乗せられ――ふわん、と彼女の体臭が僕の鼻に語り掛けてくる。
――石鹸の香りが、した。
ドキッとする。
風呂上りを想起させた。
それ以上を想像しそうになり、自制する。
落ち着け、ここは会社、この子は新卒、初対面で、自分は先輩。
香水だろうか?
いい香りだ。
――いかんいかん。新卒だから、張り切っているのだろうか? 頑張る方向性が違う気もしたが。
次の日から毎日、そうだった。
今日も香水か。頑張るなぁ――などと思っていたのだ、が。
一ヶ月も経った頃だろうか?
いつもの香水と、――髪の毛が、少し、湿って、る……?
なんで?
風呂だ。
直感的に思った。
この子は風呂に入りたてだ。しかも。香水。――せっけんの、かおり……
まさか。
いつも臭っていた香水は、石鹸の香りだったのか?
毎日朝、風呂に入ってから仕事場へ、来ていた。
初日で、すら。
朝、風呂に入る理由は一つだ。
この子は毎日。朝帰りを、している。
そして僕の横で、何ともない風をして仕事をしている。
これは。
世界が変質する。
僕は――
■
家のお風呂が壊れた。
給湯器の故障みたいだ。
母が、これではお風呂に入れないわね、とため息をついている。
一緒に近所のスーパー銭湯に行った。
「当分は銭湯通いねぇ、困るわ……、お金が」
「いいじゃない、気持ちいいよ。私銭湯好き」
「あんた温泉とか、銭湯
お風呂は嫌いなのに……と続ける。またため息。
「そーゆーもんなの!」
「お母さんわからないわ。どっちも同じでしょう。銭湯に入れるなら、給湯器直ったらちゃんと夜、お風呂入りなさいよ」
「ああ、それは保証できないかも」
三度母は、ため息をついた。
春とはいえ夜は冷える。
夜気に湯気が溶けていく――自分が夜の中にくっきりと輪郭を持って存在しているのが分かる。
気持ちがいいな。
「お風呂って気持ちいいね」
そんな事じゃあお嫁に行けないわよ――お母さんがつぶやいている。
■
馬鹿な……
朝、朝礼をして、うだうだとした部長の長話を聞いた後、だ。
席に付いてから、一時間は香っている筈の――僕の密かな楽しみ……新卒ちゃんの石鹸の香りが……しない。
しかも髪も、濡れて、ない。
何故だ。
今朝は風呂に入っていないようだ。
そこではた、と気がつく。
行為をしていない、という事は。
彼氏に、振られた……?
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