第四章 灰の子供たち
「坊や、最近このあたりで、白いリボンを巻いた猫を見たことは?」
新聞配達の少年を、スワロゥは銀貨を手に呼び止めた。
六の数字に王冠が描かれたそれは朝の光を鋭く弾いた。半シリングの銀の煌めき。
少年はその光に目を釘付けにされながら、弾む声で答えた。
「白いリボン? あぁ、可愛がられてた猫がいましたよ!」
「可愛がる?誰が?」
「目の悪い子だよ。黒い帽子かぶってて、猫に話しかけてた。なんか、歌みたいに」
「角のパン屋のおばさんとこで働いてたよ」
「歌、それにパン屋さんね。ありがとう」
スワロゥが指をピンと弾くとゆったりと宙を舞った銀貨が少年の手に収まった。
「サンキュー、レディ!」
少年は言うが早いか、素早く路地に消えていった。
焼き立てのパンと蒸気の煤の匂いが交わる場所。
ロンドン西部、パディントンの朝。
汽笛が一声、灰色の空に弾けた。
開けようとする夜が来るべき朝に領土を譲りたくないと主張する境界のような時刻。
通りには新聞売りの少年が声を張り上げ、馬車の蹄が石畳を打った。
石畳を走り抜ける小さな足を、危うく馬車が轢きかけて霧を吹き飛ばすような御者の怒声が飛んだ。
白い霧の粒に光が反射して、世界が少しだけ金色に見える。
アリスは馬車の窓越しに、その光景をうっとりとした目で見ていた。
膝の上の手帳には、昨夜の詩が開かれたまま。
祈り、機械、眠る眼――その三つの言葉が、霧の向こうで繰り返されているようだった。
その最初の糸口がここにあるはずだった。
パディントン駅の東口――プレード・ストリートとロンドン・ストリートの角。
スワロゥはその隙間を音も無くすり抜けていく。滑る影のように。
パン屋の軒先から、焼きたての小麦の香りが霧に混じる。
仕事に向かう黒帽の紳士が、腕時計を見ながら慌ただしくロールパンにバターを挟ませている。
「焼きたてのいい香りですね。ここのパンが美味しいと伺いました」
「あら、うれしいねえ。ご注文は?」
「お昼を十人前お願いできますか?コーヒーも添えて。エグジビション・ロードの分室まで」
「うちは肉料理も自慢ですよ」
抜け目なく女将が笑う。スワロゥは頷き、いつの間にか準備していた住所の書付けを差し出した。
「折角ですから、朝の分も頂きます」
「バースバンを一つと、サンドウィッチを包んでいただけますか?」
「綺麗な髪ねえ。お嬢様のお使いかい?」
気をよくした女将は、お世辞を言いながら隣の客に素早くパンを渡した。
「主人はまだお若くて、甘いものが大好きなんです」
パンをトレーに並べながら、女将は世間話を続けた。
「飾り細工が整っていますね。きっと喜ばれます」
スワロゥは笑った。
「前はもっとすごかったんだけどねえ」
女将は粉のついた手をエプロンで拭いながら残念そうに言った。
「クラレンスって坊やがいてね」
「目が悪いけど、そりゃあ手先が器用でね。あの子が捏ねると、どんな生地でもまるで絹みたいに仕上がるんだ。それに飾り細工も――」
女将は誇らしげに胸を張る。
「大聖堂の彫刻にも負けないくらいでさ」
「ケンジントンのお屋敷にもお得意様がいたんだよ」
スワロゥの驚いた表情と感嘆の声。無論演技だった。
「手放すのは惜しかったけど、うちなんかにはもったいない子でさ。でも、あんたのところが新しいお得意様になってくれるなら、きっとまた評判も戻るよ」
スワロゥは微笑を浮かべ、女将の言葉にさりげない相槌を打った。
「女将さんはいい人ですね。クラレンス……。その子、今は?」
「今はサザークの教会の夜学に通ってるよ。奨学生でね、頭が良くて、点字も電信も小さい子に教えてるって一度手紙がきたよ」
「うちにいた頃から、点字を打つ音が聞いたこともない響きでね」
「そんなにですか?」
「ええ、まるで小鳥が歌うみたい」
「――小鳥。ぜひ聞いてみたかったですね。ありがとうございます」
その様子を見ながら、アリスは馬車の窓越しに煤けたガラスを指で拭っていた。
もちろん内側からでは汚れは取れない。自分の白い指を眺めながらため息をついた。
通りの向こうで、スワロゥが女将に笑いかけながらパンの包みを受け取るのが見えた。
霧の中で白い息が交わる――ロンドンの朝が動き始めていた。
馬車の脇には、黒い外套の男が控えていた。
スワロゥが封筒を手渡すと、男は黙って胸に収め、霧の中に姿を消した。
「目の見えない少年がサザークに行ったそうです」
「私たちの向かう方向はあっていそうです」
アリスは、喜びながらも、怪訝な顔でスワロゥへ質問した。
「機関の通信士です。電報を送りました」
「ねぇスワロゥ。物語でそういうのダメよ」
「駄目……、でございますか?」
「こういう時は、通りの角でメッセンジャーボーイを呼び止めるの」
「ほら、ホームズの物語みたいに“さあ、これを電報局へ!”って」
スワロゥはわずかに首を傾げ、微笑を浮かべた。
「お嬢様の物語ではそうかもしれませんが、現実では確実な方を選びます」
「到着の頃にはクラレンスが通う教会に直行できますよ」
「つまんない」
「逆です。退屈な世界を見せないために、私がいるのです」
「サザーク中の教会を当たりますか?」
「もう、わかったから。さっきのパン出して!」
「馬車の中で食べるなんて、こっちは探偵物って感じ!」
アリスの声は捜査の高揚に自らを乗せ直そうとしていた。
「どうぞ、焼きたてのバースバンですよ」
「レーズンが練り込んであって砂糖もかかっておりますよ。お口に合うかと」
「もう、スワロゥ。子供扱いしないでよ……でも言うだけあって美味しいわね」
「なかなか評判の店のようですね。
スワロゥも口元を隠しながらサンドウィッチを満足そうに口にしている。
「ポットにお茶もいただいてきましたから、冷めないうちに」
受け取りながら、レーズンの甘さに満足しながらアリスは窓の外を眺める。
景色が少しずつ田園風景へと移り変わっていく。
その様子に知識としての記号としての地図から実在する場所と空気が物語として立ち上がっていくのを感じていた。もちろん主役はアリス自身だった。
「ねえ、スワロゥ。やっぱり昔読んだ物語みたい。今日の事件がいつか本になるのよ」
「少女探偵アリスの冒険って、ちょっとタイトルがつまんないかしら」
「灰色の街を抜けて真実を目指すアリスは、サザークへと足を向けた」
「なーんてね」
「いつか、そうなりますよ。スワロゥは信じております」
「あら、意外。現実は、馬車の揺れと埃でございますが」
「何て言うかと思ったのに」
「全然似ておりませんが」
そう言うスワロゥの顔は笑っていた。
馬車の窓から見える景色は少しずつ色を変えていった。
灰色の街から夏を迎える田園風景。レンガは赤みを帯び世界が色づいて見えた。
アリスの胸の中、地下室の燻んだ金色のパイプも今は影を潜めているようだった。
*
ロンドン南部――サザーク。
朝の礼拝を終えた教会の裏庭には、まだ石炭の匂いが漂っていた。
スワロゥは指先で古い壁の刻印をなぞった。
モールスで書かれたそれを指先で読み取っていく。
「“I weave the cloth of dreams”……」
白いヴェールを被った修道女が洗濯を終えたところで、スワロゥは声をかけた。
「クラレンス・グレイ?」
「ええ、とても優秀な子と聞きまして。電信員として迎え入れたいと当家の主人が」
「それは惜しいことをしましたね。あの子ならノーウッドに行きましたよ。教会の奨学生でしてね、頭が良くて、今じゃ他の子の面倒も見てるとか。立派なものです」
「ベネット先生が、王立盲人師範学校に推薦なさって。あれからもう半年になりますか」
「ありがとうございます。お仕事の邪魔を失礼いたしました」
「もしあの子に会ったら、よろしくお伝えください」
シスター・ベネットの執務室は、石造りの廊下の奥にあった。
白いレースのカーテンが清らかな修道院の印象を引き立てていて、光が淡く透けて室内を照らしていた。机の上には、革張りの手帳と、古い電信機、そして小さなランプ。
壁には聖母の肖像と、奨学生達の名簿が整然と並んでいた。
シスター・ベネットは机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「ちょうど半月ほど前でしょうか、あの子から電報が届いたんです」
紙面には打鍵の跡が点のように並んでいる。
【TELEGRAM】
To Sister Bennett, St Saviour’s School, Southwark.
I am well. The machines sing softly here. I typed this myself.
— Clarence
「自分で打ったんですって」
修道女の声に、誇らしげな響きが混じった。
「王立盲人師 範学校ですものね。シスターの素晴らしい教育の賜物ですね」
「いえいえ、私は何も。手がかからなくて、それでいて抜群に優秀でしたよ」
シスター・ベネットは嬉しそうに言った。
スワロゥはノーウッドへの電報を丁寧に頼んでから教会を後にする。
教会の鐘が正午を告げていた。
*
馬車は再び動き出す。
「リボンが示したメッセージの通り、ノーウッド行きだね」
「せっかくだから、クリスタル・パレスを眺めながら行こうよ」
教会でのやりとりはスワロゥに任せていたアリスがそう提案した。
「赤は――ランベスはよろしいので?」
スワロゥは聞いた。
「赤はこのリボンそのもの、炉で鍛えられた赤、技術の象徴」
「私はそう考えてる。スワロゥもそう思ったから電報打ったんでしょ?」
「ALICEでしか読めないリボン。それを作る少年を押さえるのが先決よ」
馬車が小さく揺れ、革ばねが鳴る。スワロゥは静かに頷いた。
丘の向こうに、霧の切れ間からガラスと鉄の宮殿が現れた。
アリスは馬車の窓を開け放した。レンガと土、緑と花、生命の匂いがした。
「ハイド・パークから移設なんてしなければよかったのに」
「そうしたら、あの鉄とガラスの煌めきを毎日見れたのにね」
「いつの世も浪漫とお金は相反すると言うことです」
スワロゥは風に揺れる髪を整えながら言った。
「今は展示や音楽会に使われているんですって」
アリスは身を乗り出し、窓の外に顔を出した。
「いいわね。光と音の宮殿――まるで夢の中のALICEみたい」
「ねえスワロゥ、あの屋根の上を、いつか何かが飛ぶと思わない?」
アリスが霧の向こうのガラスの宮殿を見上げた。
「飛ぶ……ですか?」
「ええ。あんなに重そうなのに、光が透けてるでしょう」
「だから、きっと空も軽くなるわ」
スワロゥは少しだけ微笑んだ。
「お嬢様の夢は、いつも世界より一歩先にありますね」
「それって、変?」
「いえ。ALICEの主人に相応しいと言うことです」
二人の視線の先で、鉄とガラスが光をはね返し、きらめきは翼になった。
ロンドン南部の午後の光の中を、馬車がゆっくりと止まった。
丘の斜面が陽に照らされて、赤煉瓦の目地が金の糸のように光っていた。
電報は届いており、ロス家令嬢の急な来訪をもてなす準備は整え終わっていた。
ノーウッド王立盲人師範学校――校長室。
アリスは窓の外、淡い黄に染まる街を見下ろしながら、膝の上の書簡を広げる。
ノーウッド盲学校、校長リチャード・ハーヴィー博士。
紳士淑女のための慈善教育を掲げる、王立認可校。
その封蝋には“|Videre est intellegere《視ることは、悟ること》”とラテン語の銘が刻まれていた。
――視ること。
アリスは思わず、前夜の詩を思い出した。
「わたくし共ロス家は、ご存知の通り科学の発展、特に電信技術に重きを置いております。こちらにとても優秀な子がいると聞いて、訪問させていただきました」
アリスは子爵令嬢に相応しい慇懃さの中に、気だるげな様子を混ぜてそう言った。
校長は重厚な革張りの椅子に腰掛けたまま、表情を崩さない。
その顔は、王立学校の校長という矜持と、いかに寄付を引き出すかを計る実際家としての顔を巧みに隠しているようにも見えた。
静寂の室内にノック音が薄く響いた。
「入りたまえ」
教員に連れられた全身が白い、少年――おそらくは。がそこに立っていた。
「僕に御用だと聞いて」
うっすらと微笑む、輝く白。
黒のブレザーにスタンドカラーのシャツ、黒いリボンタイに身を包んだ少年。のはずだった。クラレンスは、性別も、年齢もそして視力までも母の体内に置き去りにしてきた。そんな存在だった。引率の教員と校長が何かを話している。けれど、アリスの耳には届かない。目が離せなかった。
「男の……子……?」
アリスの声が漏れた。慌てて手に持ったハンカチーフで口を押さえる。
「どうでしょう?特に関係ないのでは?」
「目が見えなくても、生きていけるように」
クラレンスは答えた。その微笑みはアリスよりも貴族の少女に見えるほどだった。
長い睫毛は、髪と同じく、誰も踏みしめていない新雪のようで、僅かに朱色に息づいた頬に影を落としている。音のない声、形のない文字が目の前で会話しているようだった。
「僕がクラレンスです」
声に出すと同時に指が同じモールスを叩いた。短い・長い・無音の三拍の繰り返し。
引率の教員は、教え子が子爵令嬢の気分を害していないか気が気ではないようだった。
スワロゥがそっと耳打ちをする。
「モールスです」
アリスは無言で頷いた。スワロゥなら何も言わずともやり取りをしてくれるだろう。
クラレンスは体の前で組み合わされた指を柔らかく動かした。
アリスの後ろに付き従う、スワロゥが僅かに靴を鳴らした。それは続けての意味だった。
クラレンスはリズミカルに指を動かし続ける。
「この子はとても優秀で十五歳で郵政省(G.P.O.)の初級電信資格を取ったんですよ」
「ロンドン中でもこの子だけです」
担任の自慢げな声にアリスは、飛び級どころではないその優秀さを褒めた。
「僕の白いリボンを見てくれたとか」
「最近、手慰みで作っていたんです。あれは自信作でして」
「今日もご用意したんです」
スワロゥはリボンを受け取ると、指で撫で、そしてアリスに頷いた。
二人の仕草を感じ取ったクラレンスは笑った。
真紅に染まったそのリボンはどこか血の赤に見えた。
スワロゥは指で暗号を読み解こうとした。
そこには、詩のような警句のような一言。
「彼らは夢の中で歯車を回している」
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