第三章 ゴーストとリボン
「ねえ、私もいなきゃダメ?」
締められたコルセットに身を捩らせながら、アリスは文句を言った。
「子爵令嬢ですよ?」
アリスの駄々にスワロゥは冷たい目と共に答える。
「お気持ちはわかりますが」
言い添えた言葉と、午下の光が蝋を塗られた床に斜めの線を描き、部屋の空気をやわらげた。自身が遊び場とするロス卿私邸の応接間。
子爵令嬢をもてなすためにアリスは、いつものティーガウンを脱ぎ捨て、淡い灰青のドレスに着替えていた。髪は後ろで束ねられ、毛束の乱れひとつない。
少女の指先にはまだ微かに石鹸の香りが残っていた。
令嬢としての顔を取り戻した彼女は、ロンドンの上流が期待する“ロス家の娘”そのものだった。
「ほら、いらっしゃいましたよ」
馬車の扉が開き、リリアン・アシュフォード子爵令嬢が現れるのが応接間のレースの隙間から見えた。
淡いラベンダー色のドレスが陽光を受けてほのかに透け、白いパラソルの影に負けない、柔らかく桃色に染まった頬。
金糸の刺繍が裾を縁どり、歩くたびに花びらのように揺れた。
リリアンが室内に入ると、部屋の明るさがさらに一段上がって見えた。
猫を入れたケージの取っ手を手袋越しにそっと持ち上げた。
その仕草だけで、彼女が社交界の完成品であることが分かる。
「まさか、本当に見つかるなんて」
白いグローブの指が黒い猫の背を撫でてから頬を擦り寄せた。
「では、リリアン様。お受け取りのサインを」
その声に応えてダンスの誘いを受けるような仕草で、細く折れそうに柔らかな筆跡で署名をする。子爵家に相応しい優雅な仕草でコルセットから流れる裾を翻すと立ち上がった。その手から逃れようとする猫を、侍女が手に持つ籠に押し込んだ。
深々と礼をして令嬢を見送るスワロゥがようやく扉を閉めると、アリスは言った。
「うちの方が格式は上だけど――今日は感謝ね」
「いいじゃありませんか。名探偵さん」
「二ポンドだって馬鹿になりませんし、お嬢様の好きなハロッズの砂糖菓子付きです」
「来る途中で求めてくださったのでしょう。気が効く御令嬢ですよ」
「ならいいけど」
文句を言いながらもアリスの表情は砂糖菓子の甘さを想像しているようだった。
「猫の事はお聞きにならなくて良いのですか?」
アリスを現実に引き戻すスワロゥの一言。
膨れっ面のまま言葉を待つアリス。
「とりあえず三匹。全て飼い主に返却済みです」
「あと七匹かぁ、一匹うちの子にしない?」
「飼い主がいる子達です」
「リボンは元々着けていた物ではないと確認を取っております」
スワロゥはにべもなく言うと続けた。アリスは頬を膨らませて不満を表している。
「回収したのよね?」
「もちろんでございます。わたくし以外の
「じゃあ着替えたら早速ね」
アリスはもう髪を解いていた。
スワロゥは苦笑しつつ提案する。
「その前にせっかくですから、お茶を用意させてマナー講義をしてしまいましょう」
不満げなアリスに一言添えた。
「上手にできましたら砂糖菓子、おまけいたしますよ」
*
結局午後一杯をお茶を楽しむと、アリスはいつもの装いに戻ると
「流石ね。スワロゥ」
軽やかにタイプしながらALICEに命令文を打ち込んでゆく。
この世にただ一台の……3rd-Gen DE–AE “ALICE”
差分機と解析機が結合したそれはアリスの命令を理解し解析し、答えを出す。
タイプライタ方式のコンソールを打鍵するたびに、蒸気が溢れた。
アリスはそれがALICEが謳う言葉のようで好きだった。
「本当にこれ、差分機関用テープなのよね?スターリングでも読めなかったって?」
目の前には差し出された白・赤・黒、三色のリボン。
「解析は私が行いました」
間違いはない、と言外に言いながらスワロゥは続けた。
「機関では読み取れませんでした」
「ALICEならもしかしたら」
de_ae> run ribbon_analysis
アリスが定型の命令文を入れる。
回転軸が唸り、紙送り音だけが虚しく響く。
蒸気とともに、リボンが排出された。
「……だめ。読めない。穴の間隔が合わないみたい」
de_ae> run ribbon_analysis --mode=optical
de_ae> calibrate feed_rate=0.4mm
機械の針が一瞬だけ震え、怒りにも似た唸りの後でまた沈黙した。
「お嬢様」
二本のリボンを手繰りながらスワロゥが言った。
何?スワロゥ。アリスがそう口に出す前に告げた。
「穴の深さを設定してください」
スワロゥがリボンを指でなぞり、段差のパターンを口に出す。
「浅・中・深・深・浅・中……三段階あります」
「猫の心音のように」
「深さ……なるほど、層を使った暗号ね」
アリスがその情報を入力する。
de_ae> translate pattern: SMD-DMS
de_ae> execute decode_sequence
蒸気の息が一拍、長く吐き出される。
「……読んだ。けれど――意味が、ない?」
排出された紙片には、文字とも記号ともつかない符号が並んでいた。
紙片を一瞥するとスワロゥは言った。
「数列でも音階でもないですね」
スワロゥは頭の中の知識を総動員しながら答えた。
アリスはいつも癖で椅子の上で胡座をかくと唸り始める。
スワロゥは静かに目を閉じて考え続ける。
やがて、アリスは三色のリボンを並べて見つめた。
白、赤、黒――
「色? もしかして、ねぇスワロゥ」
「色情報……?なるほど」
「きっとそう」
「深さはリズム、色は旋律」
「重ねて初めて詩になるのよ」
「色をパターンにしてしらみ潰しにしましょ」
de_ae> decode ribbon_sequence --mode=color_depth
何度目かの挑戦の後、コンソールがかすかに光を帯びた。
蒸気の奥で、低く美しい声が呟いた。
「……読めました」
スワロゥは紙片に刻まれた三つのリボンの詩をアリスに手渡した。
「The blind poet saw with inward light」
祈りの指は、月の文字をなぞる。
白いリボン。
「I weave the cloth of dreams」
沈黙の機械は、白き息を吐きながら夢を織る。
赤いリボン。
「The child is father of the man」
夜の底で、眠る眼が夢を打つ。
黒いリボン。
アリスはしばらく黙って見つめた。
詩の一節一節が、どこかで誰かが祈る声のように聞こえる。
「これって解けったって言えるのかしら?さっぱりだけど」
「祈り……機械……眠る眼……」
「全然わからないわ、ねえスワロゥ」
「目では見えない、パンチカードに祈り……編む……眠る瞳」
「The blind poet――盲目の詩」
スワロゥが詩句を静かに口にした。
アリスが急に閃いたように声をあげた。
「ねえ、スワロゥ――これは場所と差出人を示してるのよ。きっとそう」
「というと?」
「地図出して、スワロゥ。地図よ。早く」
室内の書棚から英国の地図を取り出すとアリスに手渡した。
「確か、南の方にあるよね、教会が目の見えない子達を教育してる場所」
「なるほど……盲目の子どもたちは教会の庇護の元、学問を学んでおります」
「そこでは、織物や調律などの技能を教わります」
「サザークは古くから教会主導での教育が盛んです」
やがてその声が静まり、低く続けた。
「つまり“盲学校”です」
アリスは確信の微笑みを浮かべた。
「白はサザークね」
スワロゥの言葉に合わせて、アリスは白色のリボンを置いた。
白は祈りの壁――サザークの古い礼拝堂。
赤と黒はどこでしょうか?
「パディントンで捕まえた猫がサザークを超えて向かう先……」
「そのまま南下すると工房地帯があったよね?随分前だけど行ったことある」
「ランベス」
スワロゥはそっと赤のリボンを白の下に並べた。
赤は機械の炉の燃える炎――ランベスの工房地帯。
「最後は黒。静かな眠りのような学び舎」
「ノーウッド?」
スワロゥは無言で頷いた。
黒は眠りの瞳――ノーウッドの丘の寄宿舎。
それぞれの色が、パディントンから、ロンドンの南へと伸びてゆく。
「確証はありませんが、初めてつかんだ手掛かりです」
「まずはパディントンから――盲学校を、当たりましょう」
スワロゥは言葉とは裏腹に、その瞳の奥に確かな確証があるようだった。
アリスは大きく頷いてから、静かなタイプでALICEに起動終了を命じた。
コンソールの奥から、微かなノイズと白い呼気。
アリスは首を傾げる。
「……初めての命令文だったから、負荷が掛かってるのかもね」
「少し様子を見ましょう」
「ごめんねALICE、ゆっくり休んでね」
アリスは蒸気の圧を確かめながら優しく微笑んだ。
そのとき、計測針が一瞬だけ揺れて、リボンが排出された。
意味をなさない二本線のノイズだけのリボン。
その唸りは助けを求めているようでもあり、何かを呼んでいるようでもあった。
「調子が悪いのが続くなら、ジュネーヴからの部品で手を入れてあげましょ」
「とりあえず、明日はパディントンからサザークね!」
三本のリボンが導く南への、謎解きへの糸口だった。
アリスは私立探偵として活躍する自分を夢見ているようだった。
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