第33話

 幼かった頃、自分の感情をどうしても伝えることが出来なかった。


 語彙ごいの乏しさや、思考の未熟さが、言葉を見つけられなくて、ただ俯くしかなかった。やっと言える歳になって、今なら伝えられると思ったとき、伝えたい相手は既に、何処にもいなかった。


 だから今も、大人になりきれない自分は、何も言えず、唇を噛み締めて、ただ見つめることしか出来ない。振り向かない背中を、むなしく追いかけるだけの、あの頃のまま。


 時の向こう側には、背中を丸め、其処から一歩も動こうとしない、幼いままの自分がいる。


 子供の時間は、とっくの昔にくだけ散った。これ以上、失うことも出来ないくらい粉々こなごなに、りに。けれど自分は、今も同じ場所で足踏あしぶみし続けている。


 ―― 母さんは、どうして僕を生んだの?


 滾々こんこんとわきだす記憶につながれた、音に出来なかった問い。その問いに、昨日の彩加の、消え入りそうな問いかけが、重なった。


 ―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?


 泣き続ける時の中で、同じ場所に立ちすくんだままのふたつの影。


 それは子供の頃の利人と彩加だった。薄蒼うすあおやみの中、彩加が振り返る。たよりなげなうす肩越かたごしに、何処へ行けばいいのかと問うように、今の利人を振り返る。


 ずっと長い間、彩加はひとりぼっちで、そして今も、沙希の手を離してしまった彩加の傍には、誰もいない。今、この瞬間も ―― 。


 はじかれたように、利人は立ち上がっていた。


 ハンガーからコートをぎ取り、カウンターを飛び出す。言い知れない不安に指先が震えて、店の鍵がうまくかからない。こんなにも動揺している自分になかばあきれながら、利人は彩加のアパートに向かって走った。


「たしか、此処のはず……」


 ひとりごちて郵便受けの表札を一件一件確認していく。


 二階の一番奥に「早坂」の名前を見つけ、階段を駆け上がりインターフォンを鳴らす。返事はない。けれど、キッチンと思えるり硝子の向こう側には、朝だというのにともったままのあかりが見える。


「彩加?」


 呼んで、ドアを叩いた。


「彩加!」


 消せない不安はやがて現実となり、利人の鼓動こどうはやる。


 何度かドアを叩いて、それでも開かれないドアに、利人は大家の連絡先を訊こうと思いたち、隣の部屋のインターフォンを押そうとした。その指先が、カチャリという音に止まる。振り返ると、彩加の部屋のドアが、ゆらりと開いた。


「彩加っ!」


 慌てて駆け寄り、引き開けたドアの向こうに、小さくうずくまった彩加がいた。


「彩加? どうした? 大丈夫か?」


 答えはない。パジャマのまま、彩加は小刻みに震えながら、胸の辺りの布をぎゅっと握り締めている。


 声も出せずにいる彩加の横をすり抜け部屋に上がり、救急車を呼ぶ。足元に散らばる破片はグラスだろうか。しゃがんでその欠片を隅に寄せようとしたとき、テーブルの下に落ちていた白い診察券を見つけ、利人はそのプラスチックのカードを拾い上げる。


 立ち上がり見渡す部屋の惨状に、眉を顰める。


 布団が捲くれ上がったベッドは、シーツにも枕カバーにも黄色い液体が染み付いて、何度も吐いたらしい状況がわかった。クローゼットの脇にかけてあったコートを取って、玄関先でうずくまったままの彩加を包み込む。


 キッチンまで抱き上げて横にした時、開けられたままのユニットバスに目がいく。流されないまま其処にあった汚物を流して、もう一度彩加の手を取った。力ない冷たい指先を握り締めて、利人は彩加の震える身体を抱きしめた。


 コートで包み込んで抱き上げたとき、彩加の紅くなったまなじりから、透明な雫が零れ落ちた。


「……おかあ、……さん……」


 彩加の小さな呼びかけに、利人のまぶたが熱くにじんでいく。


 平気だと、ひとりきりでも平気だと繰り返しながら、望むようなぬくもりを返してくれない何もかもにあきらめながら、それでもその手を捨て切れない彩加が、利人の腕の中にいた。


 そのつたない想いに押し出されそうになる涙を、利人は必死に飲み込んでいた。

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