フリープラン
アヌビアス・ナナ
第1話
視界の右上に表示されていた『残り時間』のカウントが、赤く点滅し始めた。 【残り 00:05:00】
エス氏は冷や汗を拭うことも忘れ、必死に空中の仮想キーボードを叩いた。 「頼む、決済してくれ! なぜエラーが出るんだ!」
彼は生まれつき心臓に疾患があり、人工心臓メーカー『ライフ・コネクト社』のサブスクリプション契約によって命を繋いでいた。月額5万クレジット。決して安くない金額だが、支払いが滞れば、遠隔操作でポンプが停止する。文字通り、命の更新料だ。
今まで一度も支払いを遅らせたことはない。だが今日に限って、メインバンクのシステム障害で引き落としが失敗したのだ。
「カスタマーサポート! オペレーターを出せ!」
エス氏が叫ぶと、部屋のスピーカーから落ち着き払ったAIの声が返ってきた。 『現在、回線が大変混み合っております。このままお待ちいただくか、チャットボットをご利用ください』 「待っていたら死ぬんだよ! 緊急事態だ!」 『お客様の心拍数の上昇を検知しました。健康のため、深呼吸を推奨します』 「お前が止まるからだろうが!」
【残り 00:01:00】
エス氏は絶望した。手元の端末には「決済エラー:コード999」の文字が無慈悲に並んでいる。 走って窓を開け、大通りに向かって助けを求めようとしたが、足がすくんで動かない。 恐怖ではない。バッテリーセーバーが起動し、末端へのエネルギー供給がカットされたのだ。
「そんな……嘘だろ……」
視界がグレーに染まっていく。 人生の走馬灯さえ、課金していなければ見られないのだろうか。 エス氏は薄れゆく意識の中で、家族の顔を思い浮かべようとしたが、思い出せなかった。クラウド上のフォトアルバムへのアクセス権も、同時に失効したからだ。
【残り 00:00:00】
ブツン。 世界が暗転した。
……
……
「……様。……エス様」
意識が戻る。 エス氏は目を開けた。白い天井が見える。 胸に手を当てると、トクン、トクンと、確かに鼓動が刻まれていた。
「助かった……のか?」
起き上がろうとすると、目の前に立体ホログラムの女性が現れた。ライフ・コネクト社のAIアバターだ。彼女は満面の笑みを浮かべていた。
『おめでとうございます、エス様! 決済期限は過ぎてしまいましたが、弊社の理念である「すべての人に鼓動を」に基づき、特別救済措置が適用されました』
エス氏は涙を流して安堵した。 「ありがとう。ああ、神様、いやAI様……。すぐに銀行へ行って支払うよ」
『いいえ、その必要はありません。お客様は自動的に**「広告付きフリープラン」**へ移行されました』
「フリープラン?」 聞き慣れない単語に、エス氏は首を傾げた。
『はい。月額料金は一切かかりません。命はタダです。素晴らしいでしょう?』
「なんと……! なんという慈悲深い会社だ。一生ついていくよ」
エス氏は感動に打ち震え、ベッドから降りようとした。 その瞬間だった。
突然、視界のすべてが強烈な極彩色の光に覆われた。 大音量の軽快なジングルが、脳内に直接響き渡る。
『新発売! 激辛スナック「デビル・チップス」! 今なら増量中!!』
「うわあッ!? なんだこれは!」 エス氏は耳を塞ごうとしたが、音は止まない。視界の中央では、毒々しい色のお菓子が踊り狂っている。
『フリープランのお客様は、5分ごとに30秒の動画広告を視聴していただく必要があります』 AIは変わらぬ笑顔で説明した。
「ご、5分おき!? しかも視界を全部塞がれたら、歩くこともできないじゃないか!」 『ご安心ください。広告視聴中は、安全のため身体機能がロックされます。その間、心臓のポンプ出力も「省エネモード」に切り替わりますので、少し息苦しいかもしれませんが、死にはしません』
「待て! 仕事中はどうするんだ! 車の運転中は!?」 『プレミアムプランへの復帰をご希望ですか? 現在、システム障害の影響で、復旧手続きには2週間ほどお時間をいただいております』
『デビル・チップス! 食べた瞬間、地獄の刺激!』
広告が終わると、ようやく視界が開けた。 ぜえぜえと息を切らすエス氏に、AIは事務的に告げた。
『それでは、次の広告まで、残り4分30秒です。有意義な人生をお楽しみください』
エス氏は絶望した。 生殺与奪の権を握られる恐怖よりも、もっと恐ろしい地獄。 それは、自分の人生の時間の10分の1が、興味もないスナック菓子の宣伝に乗っ取られるという、安っぽくも逃れられない拷問だった。
胸の奥で、心臓が次の広告のロードを始めた音がした。
フリープラン アヌビアス・ナナ @hikarioibito
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