第09話 猫の憂鬱
【カイ・視点】
午前二時。
コンビニの古い業務用冷蔵庫が、居眠りでもしているかのような低い唸り声を上げている。
それと呼応するように、俺のズボンのポケットからは、神経を逆撫でするような振動が絶え間なく続いていた。
ブブブ……
ブブブ……
カウンターを拭くふりをして、こっそりと画面を覗き見る。
『そと あめ やんだ?』
『プリン たべちゃった』
『テレビ つまんない』
『カイさま いちびょうでもいい こえ ききたい』
『いる?』
また、新着五件。
すべて句読点なしのひらがな。言葉を覚えたての幼児のようであり、あるいは深海から信号を送り続ける探査機のようでもある。
あの「見守りケータイ」を渡して以来、俺のポケットに安息の時は訪れていない。リアは、この電子信号の爆撃によって、俺がまだこの世界のどこかで生きていることを確認しようとしているらしい。
「はぁ……まったく、とんだ甘えん坊のリモコンだな」
俺は苦笑しながらスマホをしまい込み、傍らにある金属製の台車を引き寄せた。そこには半額シールが貼られ、消費期限まであと数分と迫った弁当やパンが山積みにされている。
さあ、本日の「処刑タイム」だ。
レジカウンターの向こう側では、栗色のショートヘアの生き物がテーブルに突っ伏し、尻尾で床をパタパタと掃き掃除していた。
「おい、ミャ。起きろ、仕事だぞ」
俺の声に、今まで垂れていた三角形の耳がピンと跳ね上がる。
「ニャッ!? やっと退勤時間かニャ!?」
「まだだ。こいつらの『火葬』の時間だよ」
俺は台車に乗った廃棄食品をポンと叩いた。
本来なら、これらは中身を分別してゴミ箱に捨て、ロスとして記録しなければならない。だが俺は手慣れた様子で、中身の見えない黒い大型ポリ袋を取り出し、在庫の「整理」を始めた。
デラックスハンバーグ弁当、カツ丼、そして少し潰れたホイップクリームパン……。俺はあえてカロリーが高く、ボリュームがあり、腹に溜まりそうなものを選んで袋に放り込んでいく。
「あーあ、めんどくせえなぁー」
詰め込みながら、俺は三文芝居のような棒読みで愚痴をこぼす。
「店長のケチおやじ、こんなに廃棄出したって知ったら『発注が下手くそだ』ってまたグチグチうるさいだろうなぁ。規則違反だけど、どこかの『超大食い選手』が証拠隠滅(たべ)てくれないかなぁ? つまみ食いじゃなくて、『店員の証拠隠滅業務への協力』としてさ」
ミャがレジの陰から顔を覗かせた。その琥珀色の縦長の瞳が、俺の手にあるズッシリと重い袋を凝視し、喉がゴクリと動くのが見えた。
だが次の瞬間、彼女はプイと顔を背け、露骨に嫌そうな顔で尻尾を振った。
「ニャー? またかよぉ。カイ君も人を生ゴミ処理機扱いしすぎだニャ!」
腕組みをして文句を垂れるミャ。だがその体は、口とは裏腹に、端が擦り切れた大きな帆布のトートバッグを素早く広げている。
「アタシだって胃袋はデカいけどさ、最近はスタイル維持とか考えてるんだぞ……それに、こんなコンビニの残り飯ばっか食ってたら毛艶が悪くなるニャ」
ブツブツと言いながらも、彼女は手際よく袋の口を開け、俺との連携プレーで食料を受け取っていく。
「ま、カイ君がそこまで頼むなら、仕方ないから助けてやるニャ。アタシってば情に厚いからな。これも同僚の悩み解消のためだ、ニャ!」
「へいへい、助かるよ。俺一人じゃゴミの分別だけで日が暮れちまう」
俺は笑いを噛み殺しながら、大人四、五人分はある食料が彼女の鞄に吸い込まれていくのを見ていた。
本当に、ただの「大食い」なのだろうか?
毎日これだけの高カロリー食を持ち帰っているのに、彼女の手首は窓の外の枯れ枝のように細く、だぼっとした制服の襟元からは鎖骨が浮き出て見える。
それに、あの重たい鞄を持ち上げるたび、中からは何膳もの安い割り箸がぶつかり合う音がするのだ。
一人で食べるのに、割り箸が五膳も必要だろうか?
俺は聞かないし、彼女も言わない。これは俺たちの間にある、暗黙の了解だ。
「じゃ、もらってくニャ! あ、その鮭おにぎりも寄越せニャ、どうせ捨てるなら勿体ないし!」
ミャは目にも止まらぬ速さで最後のおにぎりをひったくった。垂れていた耳は、今や元気いっぱいに天を向いている。
そのまま顔を近づけておにぎりを奪おうとした、その時だった。
彼女の豪快な笑顔が、不意に凍りついた。
揺れていた尻尾が、急ブレーキを踏んだように空中で硬直する。
スンスン。
ミャの鼻が、忙しなく二回動いた。
「……?」
「カイ君……」
さっきまでの「食いしん坊キャラ」の軽薄さは消え失せていた。ミャは目を細め、極めて真剣な表情で俺の襟元に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。
「お前、最近なんか変な場所に行ったかニャ?」
「は? ずっと店でお前と一緒だったろ」
「違う……この臭い、おかしいニャ」
ミャは眉をひそめ、あろうことか俺の肩を掴んで、首筋に鼻を埋めてきた。
「……甘い。甘すぎて胸焼けする。まるで、熟れすぎて腐る寸前の果実とか、猛毒を持った花みたいな臭いだニャ」
彼女はバッと飛び退くと、鼻をゴシゴシと擦った。まるでウイルスか何かに感染したかのような反応だ。
「前までは男臭さもなくて、せいぜい制汗剤の臭いしかしてなかったのに! 今はなんか、ネバネバした何かに全身包まれてるみたいだぞ……おい、顔色も悪いし、本当に大丈夫かニャ?」
尻尾の毛を逆立てている彼女を見て、俺も思わず自分の袖を嗅いでみた。
「そうか? 柔軟剤変えたせいかな……」
「柔軟剤はこんな脳みそが痺れるような臭いしねえニャ!」
ミャは焦ったように再び詰め寄ると、オカンのように俺の瞼の裏を見たり、額に手を当てたりして検分し始めた。
「変な女に憑かれてないか? それとも住んでる部屋の風水が最悪とか? その甘ったるい臭い……まるで、何かの捕食者のマーキングだニャ」
「考えすぎだって。多分残業続きで疲れてるだけだよ」
俺は笑って彼女の手を払った。
その時、ポケットのスマホがまた、あの神経を削るような振動音を立てた。
ブブブ……
「悪い、家の……アレがまた起きたみたいだ。裏で返信してくる」
俺は申し訳なさそうにミャに笑いかけ、倉庫の方へと背を向けた。
ホールに残されたミャは、いつもなら飛ばしてくる「スマホ中毒!」というツッコミもしなかった。
ただその場に立ち尽くし、期限切れの弁当が詰まった重たい鞄を抱きしめたまま、複雑な表情で俺の背中を見つめていた。その喉からは、低く、不安げな唸り声が漏れていた。
【幕間:路地裏の猫】
錆びついた鉄骨階段が、一段踏むごとに「ギィ、ギィ」と悲鳴を上げる。
都市の再開発から取り残された貧民区画。いつ取り壊されてもおかしくない木造アパートの壁は薄く、隣人のカップルの喧嘩声が丸聞こえだ。廊下には染み付いたカビの臭いが漂っている。
塗装の剥げた鉄のドアの前で、ミャは大きく息を吸い込んだ。
彼女は表情筋を調整し、さっきまでコンビニで見せていた憂い顔を消し去ると、まるで遊園地帰りのような満面の笑みを貼り付けた。
「たっだいまー! ニャー!」
ドアを開けると同時に、狭い玄関にパタパタという足音が響く。
「姉ちゃんニャ!」
「姉ちゃんおかえりニャ!」
飛びついてきたのは、二つの痩せた小さな影だった。猫耳を生やした男の子たち。着ているTシャツは黄ばみ、首元はヨレヨレだが、嫌な臭いはしない。
「こらこら、そんなに飛びつくな、姉ちゃん倒れちゃうぞニャ!」
ミャは笑って弟たちの頭をワシャワシャと撫でると、手品師のように、あのずっしりと重い帆布の鞄を高々と掲げた。
「見ろ! 本日の戦利品だニャ!」
「うわーっ! コンビニ弁当だニャ!」
「ハンバーグある? ボク、ハンバーグ食べたいニャ!」
歓声を上げる弟たちを見て、ミャの胸の奥に、酸っぱくて温かいものが広がる。
六畳一間の狭いワンルームには、生活用品が乱雑に積み上げられていた。部屋の隅には空のビール缶(それは「不良娘」を演じて借金取りを威嚇するための小道具だ)と、筋肉を維持するための古いダンベル。
そして部屋の最奥、万年床の布団がかすかに動いた。
ゴホッ、ゴホッ……と、湿った咳が聞こえる。
「……ミャ……帰ったのかい?」
今にも切れそうなほど細い声。
「母ちゃん、起きなくていいニャ。寝てて」
ミャは慌てて鞄を置き、布団に駆け寄る。骨と皮ばかりに痩せ細った猫人族の母の背中を支え、水を飲ませた。
国民保険なんてものがない底辺社会において、母の病気は底なし沼だ。そして父親という名の男は、人間の工場から銅線を盗もうとしてとっくに刑務所の中。残ったのは膨大な賠償金と借金だけ。
「ごめんね……またこんな遅くまで……」
母が申し訳なさそうに、ミャの荒れた手を撫でる。
「バカ言ってるんじゃねえニャ。アタシは夜行性だから、夜のほうが元気なんだよ!」
ミャは力こぶを作ってみせて、それからくるりと振り返り、テキパキと食料の配給を始めた。
「ほら、ユウはハンバーグ、リクはからあげ弁当な。母ちゃんには、このお粥を温めてくるニャ」
彼女は手慣れた様子で、カイから受け取った「ゴミ」を温め、三つの口へと運んでいく。この家にとって、コンビニの廃棄弁当こそが、最高級のディナーなのだ。
「姉ちゃんは食べないのニャ?」
口いっぱいにハンバーグを頬張った弟が聞いた。
「あ? アタシ? 店でとっくに食いすぎて腹パンパンだニャ!」
ミャはぺたんこの腹を大げさに叩いてみせ、鞄から一番安い、潰れた梅干しおにぎりを取り出した。
「あのバカ店員がまた発注ミスりやがってさ、無理やり食わされて吐きそうだニャ……だから今は、このおにぎりで口直しするくらいで丁度いいんだ。ったく、めんどくさい奴だニャ」
下手くそな嘘をつきながら、おにぎりの包装を破る。
あの「バカ店員」。
カイは一度だって、なぜこんなに大量の弁当を持ち帰るのか聞いてこなかった。一度だって、あのヘドが出るような「同情」の目でアタシを見たことはない。
ただ能天気なバカのふりをして、「ゴミ処理が面倒だ」と文句を言いながら、一番鮮度のいい廃棄品をアタシに残してくれる。
彼にとってはただのゴミかもしれない。けれど、それが確かに、この家族の命を繋いでいるのだ。
食事を終え、家族が寝静まった深夜。
ミャは部屋の隅で、アニメのステッカーだらけの古いノートパソコンに向かっていた。
画面のブルーライトが、彼女の深刻な縦長の瞳を照らしている。
検索バーに打ち込む言葉は、いつもの日雇いバイト探しではない。自分を、そして間接的にこの家族を養ってくれている「恩人」のためのものだ。
キーボードを叩く指に、思わず力が入る。
『体から甘い匂い 慢性中毒』
『人間 男 急に弱る 原因』
『洗っても落ちない花の香り 呪い?』
エンターキーを叩く。
表示されるのは、怪しげな広告ばかり。
「……チッ、使えねえニャ!」
ミャは苛立ちに髪をかきむしり、画面に映ったカイの間抜けな笑顔(店の集合写真)を睨みつけた。
「あのバカ人間……変な奇病でも貰ってきたんじゃねえだろうニャ」
彼女は振り返り、規則正しい寝息を立てる家族を見た。その声は小さく、けれどギリリと歯噛みするような決意が滲んでいた。
「あんなに良い……じゃなくて……あんなに騙されやすくてお人好しな奴が、運悪く死んだりしたら困るんだニャ」
「お前が死んだら、誰がアタシに『ゴミ』をくれるんだよ……」
ミャは鋭い爪を伸ばし、虚空を切り裂くように振った。
「……次は、こっそり後をつけてみるかニャ」
もし本当に何か汚いモノが彼に巻き付いているなら。それが悪霊だろうが、タチの悪い女だろうが。
家族を守るために磨いてきたこの爪で、八つ裂きにしてやる。
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