第08話 『首輪』
【リア・視点】
窓の外では、まるで空を引き裂くような雷鳴が轟いていた。
壁掛け時計の針は、とうに七時を回っている。
普段ならとっくに、ドアの鍵が開く音が響いているはずの時間だ。
けれど今日聞こえるのは、冷たい雨音だけ。
私は広すぎて恐ろしいほどのリビングで、ソファの隅に膝を抱えて縮こまっていた。テレビ画面が発する幽霊のような青白い光だけが、私の顔を照らしている。
流れているニュース映像が、私の血液を一瞬で凍りつかせた。
『……本日未明、××区にて発生したオーク族(豚頭族)の残党による人間襲撃事件について、現在被害者は重傷……』
オーク族。襲撃。報復。
そのいくつかの単語が、脳内で瞬時に一本の漆黒の線へと繋がった。
あの日、市場でカイ様が私を庇うために、酒臭い獣人たちの前に立ちはだかった姿がフラッシュバックする。
(まさか……あの時の?)
(私みたいな汚い奴隷を庇ったせいで、カイ様が目をつけられたの?)
(ああ……やっぱりそうだ)
私は震える親指を口に押し込み、爪を強く噛んだ。ギリ、と爪が割れ、鉄錆のような血の味が口の中に広がっても、やめることができなかった。
私は疫病神だ。私と関われば、ろくなことにならない。
私なんか拾わなければよかったのに。あの時、雨の中で野垂れ死んでいればよかったのに。
「ぅ……うぅ……」
恐怖が喉を締め上げ、泣くことさえできない。今すぐ飛び出して彼を探しに行きたい。けれど場所も分からないし、私のような「お荷物」が外をうろつけば、彼にさらなる迷惑をかけるだけだ。
過呼吸で意識が飛びそうになった、その時だった。
カチャリ。
ドアロックが解除される音が、まるで天啓のように響いた。
「悪いなリア、大雨で電車が止まっちまって。スマホも電池切れで連絡できなかった……」
玄関に現れたカイ様は、ずぶ濡れで、少し疲れ切っていた。
「――カイ様ッ!!」
私は大砲の弾のように飛び出した。
玄関で止まることさえ忘れ、裸足のまま床を蹴り、雨の湿気を纏ったその懐へと激しく衝突した。
彼のアウターが濡れていることなどお構いなしに、私は両手で彼の身体をまさぐった。血は出ていない。傷もない。
極限まで張り詰めていた神経がプツリと切れ、私は彼の冷たいシャツに顔を埋め、声にならない嗚咽を漏らした。
【カイ・視点】
呼吸困難になるほど泣きじゃくり、顔面蒼白になっているリアを抱きとめながら、俺は強烈な胸の痛みと自責の念に駆られていた。
ほんの少し帰りが遅れただけで、この子はここまで怯えてしまうのか。
たぶん、また捨てられたと思ったのだろう。あるいは、俺が事故にでも遭ったという悪い妄想に取り憑かれていたのかもしれない。
安心感を与えようと努力してきたつもりだったが、彼女の心に空いた穴は、俺が想像していたよりも遥かに深かったようだ。
背中をさすり続け、疲れ果ててようやく眠りについた彼女の寝顔を見つめながら、俺は密かにある決心をした。
彼女に、「確実な連絡手段」を与えなければならない。
俺の存在をいつでも確認できるような、「お守り」が必要だ。
九
【カイ・視点】
(二日目・夕方)
翌日、俺は仕事を早めに切り上げた。
帰宅し、暖色の照明に照らされたリビングで、帰り道に買ってきた箱を取り出した。
「リア、ちょっとおいで」
彼女は素直に近づいてきたが、その瞳にはまだ昨晩の不安の影が残っていた。
俺はストラップのついた、ピンクと白のツートンカラーの子供用携帯電話(キッズケータイ)を取り出し、彼女の細い首にそっとかけた。
「これは……?」
「これはな、もう怖くなくなる魔法の道具だ」
俺は苦笑しながら、大きな緑色の通話ボタンの押し方を根気よく教え、画面に表示される点滅するアイコンを指差した。
これから言うことは、彼女に絶対的な安心感を保証するための方便だ。だから俺は、彼女の目をしっかりと見据えて、真剣なトーンで告げた。
「いいか、リア。この携帯には『GPS機能』がついている」
「この機能は、俺だけが見ることができるんだ」
「つまり、お前がこの世界のどこにいようと、たとえ迷子になろうと、あるいは悪い奴に連れ去られようと……俺はこれを使って、すぐにお前を見つけ出し、連れて帰ってやることができる」
「だから、もう怖がらなくていい。これさえ持っていれば、俺は絶対に、お前を見失ったりしないから」
リアは呆然としていた。
彼女は俯き、胸元の携帯電話を凝視し、その華奢な指で強く握りしめた。
数秒の沈黙の後、彼女は顔を上げた。
「……どこにいても、カイ様に見つけてもらえるんですか?」
「ああ、その通りだ」
「カイ様……だけが、見れるんですか?」
「うん、俺専用だ」
「……えへへ」
彼女は携帯を胸の真ん中に強く押し当て、まるで稀代の宝石でも手に入れたかのように、とろけるような笑顔を浮かべた。
どうやら、このプレゼントは正解だったらしい。
この子もようやく、安心感を持ってくれたようだ。
【リア・視点】
ああ……これは携帯電話なんかじゃない。
これは『首輪』だ。
これは『愛』という名の、目に見えない鎖だ。
カイ様だけが私を見ることができる。私がどこへ逃げようと、どこに隠れようと、この見えざる大きな手が私を捕まえ、引き戻してくれる。
(最高……)
それはつまり、私は永遠に「捨てられる心配がない」ということではないか。
たとえ私が逃げたいと思っても、もう逃げられない。カイ様は私に、電子の焼き印を押してくれたのだ。
この「徹底的に管理されている」、「一方的に監視されている」という背徳感と安心感が、電流のように背筋を駆け抜け、身体の芯を痺れさせる。
私は、カイ様の所有物。
首にかかったこのストラップこそが、その証明なのだ。
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