2-17 水坂峠

 月のない夜は漆黒しっこく奈落ならくである。人もけものも音と匂いだけを頼りに活動する。今、一行はその奈落の底を提灯の明かりに包まれ動いていた。それは遠く離れた山の上からでも簡単に見つけることが出来る。まるで光に包まれたまゆのようだ。獣たちは明かりを怖れ決して近寄ってはこない。近寄るのは宙を舞う虫たちと、邪な企てをしようとする者どもだけだ。


 朽木を出て登りの山道を往く。宿から一里ほどの山道だ。提灯の明かりが届く以外は全くの闇だ。風で木が揺れる音と、時に、胸のうちを絞り出すように鹿が哀し気に鳴く。


「このへんが檜峠ひのきとうげや。ここから先ぁ、保坂ほさかまでずーと下り坂やさかいな。ちょいっと一服しよるけ?」

 前駕籠を担いでいた人夫が先頭の航に声を掛けた。


「おーい。わ……航。……。ひ……一休みしよう……」

 大分遅れて具視の泣き声が聞こえた。航は駕籠が降ろされたあたりまで戻った。


「しようがない。少し一服しよう。おっちゃん、ここから熊川宿まではどういう感じや。俺も通ったことがない」

 航は駕籠舁かごか人夫にんぷたずねた。


「先ずはな、こっから坂を降ったら保坂の在所ざいしょがあんでぇ。ほしたら石の道標があるさかい、それを左に折れたら、地蔵堂や金毘羅はんに出る。ほれ、もうちぃと山道を下ったら水坂峠みずさかとうげに出るさかい。そこで一服じゃ。わいらも一里ごとに一服したいさかい。そいでそこをずーっと下ったら、あとは川べりの谷筋をまっすぐ行くだけや。熊川の宿場の手前、一里ほどのとこにな、八幡さんが祀ってあるさかい。そこで最後の一服したらええ」


 人夫は道に腰掛けると腰に吊ってある煙草入れをとり外した。煙管きせるを取り出し、その先の小さな火皿ひざらきざみを詰める。左手で小さな石と火皿の下の雁首がんくびを摘まむと、器用に右手で火打ち石を叩いた。火皿に赤い点がともる。そして一気に吸い込んだ。


「兄さん。あんたは一服せんのけ?」


「俺は煙草も酒もやらん」

 航は人夫に答えると宿で貰った鯖寿司の包みを開いた。駕籠舁きに、どうだ――と包みを見せたが、彼らは答えず右手を上げた。煙草の匂いが風に吹かれあたりを漂う。


「航。ちゃんと食っときなはれや。迷子になられたら困るさかい――」

 具視は既に酒の匂いをさせていた。


「入道。酒飲んでんのか?大丈夫やろうな?」


「馬鹿にせんときや。この程度の酒、わしにとったら水と一緒ですわ。酔うことありますかいなぁー。それにしても旅籠で包んで貰った鯖寿司、これも茶屋のに負けず劣らず上手いなぁー。うぃっ」


「入道、食った竹の包みはちゃんと懐にいれとけよ。捨てといたら熊が匂いに連れられ出て来るぞ」


「はぁー、熊おるんかいなぁ?うぃっ」


「当たり前やろ。真っ暗で見えへんだけで、今でもそこらへんの林から覗いてるの違うか?一行から遅れたら襲われるぞ」


「ひぇー、ほんまかいな。恐ろしいところどすなぁー。もう早ういきまひょうか」

 持っていた鯖寿司を慌てて口に入れた。


 半刻ほど坂を下ると駕籠舁きが言ったように石の道標みちしるべが出て来た。提灯を当てると、左かさ道(若狭道)、と彫られている。反対の別れ道の方にはゆんれい道(巡礼道)と。おそらく竹生島巡礼に行く道なのだろう。このあたりが保坂の集落のようだ。しかしあたりに家の灯りはついていなかった。航はそのまま集落を通り過ぎ、道を進んだ。また山道に入る。急な登りだった。登りきると駕籠舁きがまた声をかけた。


「兄さん、一服しまひょ」

 よく見ると具視の姿がない。ひょっとして先程さきほどの保坂の分かれ道を間違ったのか?航が心配していると、遠くで提灯の明かりが揺れているのが見えた。近づくにつれて荒い息が聞こえてきた。


「あかん……もう息がもたへん。はぁー、はぁー、もう駄目。死んでしまう」


「おい、早う上がって来いよ」

 航は具視に声をかけた。


「む、無理言いなはんな……。い、息が切れて……倒れそう……」

 なんとか坂を登りきると、両手をついて倒れ込んだ。


「も、もう無理。……。き、今日は、こ、ここで野宿のじゅくしまひょ。……」

 航はあきれた顔で、小さく舌打ちした。そして具視のかたわらに近寄る。


「あっ、くさ!むっちゃ酒の臭いさせとんな。入道、お前、さっき貰った瓢箪酒を全部飲んだんか?」


「はぁー……。ええ……さ、酒どしたなぁー」


「阿呆か、お前。はぁー。一体どれだけ入っとってん?」


「四合みたいどすなぁー」

 空になった瓢箪ひょうたんを振った。向こうで一服している駕籠舁きたちが鼻で笑う息が漏れる。この山道を酔っ払って歩く神経が航には理解出来ない。


「おっさん、あとどれくらいや――」

 航は駕籠舁きに訊ねた。


「今で半分くらいやな。こっから先ぁ、川沿いを往くだけやで、その酔っ払い坊主でも行けんこともないやろう。それにしても、たいした坊主やわなぁ。夜道を酒飲んで旅するとわ」


「あの……差し出がましいようですが、もしお差し支えなければ、わたくしがお代わりいたしましょうか……?」

 篠が寄って来た。


「わたくし、足の方は何ともございませんし、お坊さまと代わらせていただいた方が、道も早う進めるかと存じます」


「それはええ考えや」

 具視が手を打った。


「お前が言うてどうすんね」

 航が具視の尻を蹴った。篠がくすくすと笑う。


「ふっふ……。ほんに、面白いお坊さまですこと。峠の茶屋でもそうでしたけれど、どこか憎めないお人柄と申しますか……」


「すんまへん。こいつ、いつもこんな感じで。賢い時は思い切り賢いのやけど、阿呆な時は底抜けの阿呆で。一体どっちがほんまの正体か分からへんのや」


「まぁー。人としての器が、大きゅうございますのね」


「おひーさん、人を見る目があるにゃー」

 酒臭い息を吐きながら具視が言った。呂律ろれつが半分回っていない。


「ほんに、おもしろいお方。どうぞ、お駕籠の方へお乗りくださいませ。わたくしは本当に大丈夫にございますから」


「ほんに、おおーきに」

 篠に向って両手を合わせ、酩酊めいてい状態の頭を下げた。このまま眠り込んでしまいそうだ。


    (第四十話 了)

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