2-3 順

 家に帰り、カヨと夕食を一緒にしていると、カヨが急に怒りだした。右手に持っていた飯茶碗めしじゃわんを膳に叩き置く。膝で拳を握り背筋を立てた。


「はぁー?なにそれ?航の腰をずっと見詰め、それからおもむろに撫でだした?はぁー?どう言うこと?この前は航の一物を見て、今度はそれを撫でようとしたんかいな!お前ももお前や!恍惚としておとなしゅう撫でさせたんかいな!」

 目の前にある囲炉裏の鍋と同じように頭から湯気を立ち上がらせている。


「いや、変な意味と違うて、俺の腰の辺りや――」


「腰の辺りって、同じやろう。普通の女子は男の腰の辺りなんかじっと見んやろう!なんで順は航のそんな処ばかりが気になるんや!そう言うたら、子供の頃からそうやったわ。目を細めてあんたの背中みたり、腰を見とったりしてた」


「そうやから、違うって。変な意味やない。れいが気になるんや」


せい?男の精か!あの子はほんまに色気付いろけづきおって。可愛い顔して年増ババアみたいなことを抜かしおる。うーん。若いくせに恐るべき好色者こうしょくもんやな!」

 怒髪天どはつてんく状態で、腕組みをしながら難しい顔をしている。まるで前線で予想外の強敵が現れたという情報を聞く将軍のようだ。


「そうやない!と違って。あやかしや――、あやかしが見えるんや!」

 航は両手を上げてカヨの怒りを鎮めようとする。この辺りで冷静にさせないと、次は周りにある物を投げだすだろう。


「あ……あやかし?」 


「そう、あやかしや」


「あやかしって、あのあやかし?」


「そうや、そのあやかしや。順はそれが子供の頃からずっと見えるたらしいんや」


「……」

 カヨは急に考え込んだ。何かを思い出そうとしているように。


「あれって、本当に見えたんや……」


「えっ……カヨ、そのことを知ってるの?」


「多分……知ってた」

 幼い時の順を思い出したようだ。顎を左手の親指に乗せ、目はどこにも視点が合っていない。


「あの子、お寺でウチと遊んでたら、籠りの人を見て変なことを言うんや。あの人に狐がいてるとか、小さな子と手を繋いでいるとか、それでもそんなものウチには全然見えへんね。それで順には見えるんか?っていたら、見えるって言うんや。そやけど、それを言うたら他人が怖がるさかい言わへんようにしてるって。なんでウチは大丈夫なんや言うたら、カヨちゃんはうちのお姉ちゃんやさかいって」

 そう言うと手を組んでうつむいた。


「でも、その時一回きりやった。そんなことを言うたんわ。嫌われるって思たんやろうか。そんなことで順のこと嫌ったりする分けないやん――」

 カヨは黙り込んだ。


「順は、お母はんにそのことを言うたみたいや。自分には人に見えへんものが見える。それを他人に言うたらみんな気色悪がるねって。それで娘に変な噂が立つのを怖れて家族が順を家から出さへんようになったらしい。周りには娘が病になったということにして」


「そんな……可哀想な……。そんなしょうもない理由で、家にずっと閉じ込められてたん? ……。順があまりに可哀想やん」

 鼻をすすりあげた。


「ウチ、お母ちゃんが亡くなってから順のことをあまり構うてやれへんようになったやろう。籠り屋の弁当作ったり、洗い物したりしなアカンし。それでも順、ウチの傍に来てよう絵を書いてたわ。あの子ウチらより三つ下やんか。そやからほんま妹みたいに可愛いかった。ウチのこと、カヨちゃんカヨちゃん、言うてずっと付いて離れへんのや。お母ちゃんが亡くなった時も、順はずっと傍にいてくれた。ウチがお母ちゃんいいひんようになったって落ち込んでたら、お母ちゃん横に居はるよって言うてた。あれって、ウチのことを慰めてるんやって思てたけど、ほんまに見えてたんかもしれんな。お母ちゃんの姿が……」

たもとに差してある手拭を抜き出すと目元をぬぐった。


「順は、カヨが、『はよげんきなり』や、って書いた文を、それを今でも大事にとってるらしいで。『カヨちゃんとと一緒に遊ぶことばかり考えてた』、そう言うとったわ」

 母親の話をしたせいか、カヨは感情を抑えきれずに泣き出した。


 航も当時のことを思い起こした。


 航は六つの時に家に連れて来られた。不安そうにしていた航を、義母のツネが、「今日からはウチがお母ちゃんやで」、そう言って航をぎゅっと抱きしめた。強い力で抱きしめられ、なぜか安心した。義父の手伝いから返って来た時も、必ず「おかえり」と声を掛け抱きしめてくれた。抱きしめられるたびに、ツネのことが好きになった。


 実の母の記憶がほとんどない航にとって、ツネは本当の母親だった。義父との棒術の稽古であざだらけなった手足を、「苦しいけど頑張りや、強い男にならなアカンしな」そう言っては青じみをこすってくれた。ツネにそうしてもらうのが大好きだった。


 だがその時間も長くは続かなかった。十歳の時にツネは亡くなった。その後カヨは否応なく店の切り盛りを任され、航も力者見習いをしながらカヨの仕事を手伝った。その頃から、順とは一緒に遊んでやる暇がなくなった。順はしばらくはカヨの傍に来ていたが、順の方もお稽古事や家事見習いなどで忙しくなり、だんだんと足が遠のいていった。そしてぱったりと見なくなった。病になって家の離れで養生していると聞かされた。それから五年間、順は家に引籠ったままだった。


「ウチ今から行って来るわ」

 カヨは急に立ち上がった。


「はぁー、どこへ行くね」 

「どこって、順のとこに決まってるやろう。今から行って思いっきり抱きしめてやるんや」


「いやいや、明日でええやろう」


「いや、早い方がいい。それに、航の一物でええのやったら、なんぼ撫でてもいいと言うてくる」


「それは言わんでええ」

 航は右手を上げて制止した。


「法印はんにも文句を言うてやらんとな。あやかしが見えるくらいで自分の孫を離れに閉じ込めるとは何事や!うーん、腹立ってきた」

 両の拳を握りしめその場に仁王立ちしている。もはや殴り込みに行きそうな勢いだ。


「まあまあ、そう慌てるなって。先方には先方の理由があるんやろう。お前が今いきり立ってもしょうがないやろう」


「そやけど……腹立つやん」


「それは分かったから、まあ座れって――」

 とりあえずカヨを膳の前に座らせた。


 カヨは自在鉤じざいかぎから吊るされた鍋の蓋を取ると、杓文字しょもじを手に取りかゆを思い切り飯茶腕によそった。それを憎らしい敵のように口一杯に頬張ほおばった。まるで山鼠やまねずみのように頬をふくらせる。それは柔らかそうで詰めても詰めてもどこまでも膨らみそうな弾力性のある肌だった。航はその不貞腐ふてくされているような顔を見るのを気に入っていた。時にわざとカヨを揶揄からかったり怒らせたりもする。


「なぁー。それやったら順を夕飯に誘ったらどうや。何か美味しそうなものを作って馳走してやったら。順のことやから家で美味いものを食べてるんやけど、きっとカヨの作った手料理を喜ぶと思うで――」

 カヨの目が輝いた。


   (第二十六話 了)

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