1-22 音羽の滝

「それにしても、お前、ずいぶん困っとみたいやなぁー」

 他人ごとの様に航は言った。


「こんなとこまで来て、また追い出されてしまうとわ。ほんまに天にまで見放されてしもうた。もう儂には行くところもあらへん。こんなことやったら島流しにおうた方がましやった。それやったら諦めもしたやろうに……」

 具視は泣きながら頭を抱えた。航が具視の横にどしっと腰を下ろした。


「名前も変え姿も変え、誰にも迷惑にならんようにひっそりと隠れようとしているだけやのに、どうしてみんなワシを苛めるんや。ワシは何も間違うたことはしてへん。正しいと思うことをやってきただけや。どいつもこいつもワシを目の敵にしおって……」

 ぎゅっと両の拳を握りしめる。右手を上げると甲で鼻を拭いた。


「出ていかんでええんちゃうかなぁー」

 航は天井を見上げた。具視が引っ越して来た時にあった蜘蛛の巣は今は綺麗になっている。


「はぁぃー?」


「そやから。出ていかんでええんちゃうかなぁー?今頃、法印はんが狸オヤジの藤五郎と話をつけとるやろう」

 具視は目をぱちくりとさせた。


「芝の坊はんが……」

 芝の坊御殿へは、引っ越して来た時に菓子を持って挨拶に行ったきりだ。それも岩倉具視とは名乗らず、家来の名前である小野昇造しょうぞう参籠札さんろうふだを提出している。


「あぁ、その芝の坊はんや。法印はんは、何もかも知っとる。入道、自分が何者なのか、もな」


「……」


「そやけど、それを知らんふりしてるんや。立場上、知ってしもたら拙いこともある」

 具視は開いた口が塞がらなかった。


「俺は詳しい事は知らん。知る必要もない。そんなこと俺にはどうでもええんや。俺の職分しごとは、ここに住んどる村人らを守る。それだけや。お前もこの村人の一人や、さかり病のな」

 航はそう言うと具視を見て微笑んだ。


「ところで……その、さかり病というやつどすけど。今から違う病に変えることは出来まへんやろうか?」

 泣き腫らした眼で航を見た。


「そりゃあかん。お前から言いだしたことや。それに何故か、皆がうまいこと信じ込む。それもひとえに、入道――お前の人徳やな。大したもんや。それに村人も気持ち悪がって近づかん方がお前も気が楽やろう。これからもせいぜい人前で腰を振り続けろ」


「はぁぁ……」

 具視は気落ちしたように首をがくんとかしげた。


「ところであんさん。ひょっとして夜中に儂を護ってくれてへんかったか?」

 首を上げると横にいる航の顔を見上げた。


「なんのことや?」

 航は具視と目を合わさず足元を見ている。


「いや、気のせいかもしれんけどな。夜中に寝付ねつけんで苦しんでいるとき、風の音に混じって、変な音がしますのや。音色の低い、夜の気を斬るような音どす。どこかで太い幹が風でしなってるみたいな。それが一定の拍子でずっと聞こえてくるんや。まるで餅つきみたいに――。はて?なんの音やろうか?誰かがきねでも振ってるんやろうかと思たんやが、それやとうすを叩く音がせえへん。ずっとずっと振る音だけが聞こえてくるんやどすわ」

 具視は飲み干した柄杓を餅つきのように振った。


「始めは恐ろしぅなって、寝間に潜っとったんどすが、なんかそれを聞いている内に、周りの悪い気が祓われているような気がしてきて。今ではその音が聞こえると、妙に落ち着くどすわ。一体、何回それがするんやろうかと、この前数えてみました。なんと千回近くその音がしたんどすわ。建具を細目に開けて覗こうかと思たけど、恐い鬼が居ってもかなんし諦めたんどす」


「そうか――。おそらく、それは音羽の鬼やな」


「なんどす、その音羽の鬼って?」


「音羽の滝の上にほこらがあるやろう。あそこにまつられている不動明王や。夜な夜な村に下りて来ては、悪い奴がおらんか倶利伽羅剣くりからけんを振りながら探しとると言われている。この村の守り主や」


「それがなんでワシの近くに……」


「入道。おまえ近頃、滝に打たれているやろう、そやから自分の願いを聞き入れてくれたん違うか?」


「不動明王が?」


「そうや。祠の神さんは、その人が本当に怖れておることを見抜いて、それから護ってくれるんや。よう分らんけど、鬼は入道のことを気に入ったみたいやな」


「そうなんどすろうか?」


「きっとそうや。お前が知らんだけで、いつも誰かに守られとるんや。皆から見捨てられるだけやのうて、誰かに気に掛けられとるんや。昨日もそうや、偶然、俺が夜中に目が覚めて夜回りしたからええようなもんの、もし俺が夜回りせんかったら、自分は今頃、その首は付いてへんかったぞ――」


「そや、礼を言うのを忘れとおりました。昨日はほんまにおおきに。恩にきります。あんさんがおらんかったらワシは今頃……」

 具視はまた愚図りだした。


「分かった。分かった。もう泣かんでええ――」

 航は呆れたように具視が泣こうとするのを止めた。


「そやけど、もうあかんかも知れん。ここを追い出されへんかったとしても、昨日の連中の仲間がまたやってくるに違いあらへん」


「なんでや?」

 航は不思議そうな顔で具視を見返した。


「なんでて、あんさん。あ奴ら土佐藩のもんどすろう。番所ばんしょに連れていかれても、放免されるに違いありまへんわ。役人も天誅の巻き添えになりとうないさかいなぁー」


「はぁー。それやったら心配せんでもええ――」

 航は興味を失ったように土間の三和土たたきを眺めた。


「……」


「あいつら、今頃は溜池の魚の餌になっとる」

 ぼつりと言った。


「魚の餌?」

 航が何の話をしているか具視には全く分からなかった。


「あぁ、魚の餌や。番所まで連れて行こうと思うたが、途中で暴れたさかい斬り捨てた。土佐藩かなにか知らんけど、お前がここにいることを知っとる奴はもうおらん」 


「おらんって……。あんさん、そんな大それたことをして、ほんま大丈夫やと思うとるんかいな……」


「はぁー?俺なんか変なことしたか……」


「いやいや――。あんさん。お武家を二人も斬り殺したんどすえ。それでさばかれでもしたらどないしますのや?」

 具視は全く理解が出来なかった。航が二人も人を斬り殺して平然としていることに。


「そやから、さっきから言うとるやろう。今頃は魚の餌やて。心配せんでも溜池の魚以外は誰もそのことを知らん。お前が密告せん限りはな――」

 具視は開いた口がふさがらなかった。航が具視を見る目付きに寒気がした。


「……。あんさんと言う人は、ほんま恐ろしい人どすな。あぁー、くわばら、くわばら」

 具視は両手を合わせて合掌をした。


「あんなぁ、他人の首よりおのれの首を心配したらどうや、入道」

 航は、具視の首に手刀てがたなを当てた。


「どうや、ちょっとくらい元気になったか?」

 具視はぶるって、その手を払いのけた。


「あんさんにはかないまへんな。親子くらい違うのになんや気の知れた友垣ともがきみたいどすわ。それはそうと、あんさん、なんかええ香りをさせたはりますなぁー」

 鼻先をあげると航の辺りの薫りを嗅いだ。


「あっこれか――」

 たもとに手を入れると順から貰った匂い袋を取り出した。


「朝に法印はんの、孫の順から貰ったんや。なんやら言うこうが入っとって、それが魔除けになるらしい」

 航はその金襴きんらんの小さな巾着きんちゃくを嗅いだ。


「そや――、これ入道の方が必要かもしれんなぁ。これお前にやるわ。運が変わるかもしれん」

 匂い袋を差し出した。遠慮せずとるよう、航は顎を突き出し具視を促した。具視は小さく微笑むとそれを受け取った。袋を顔に近づける、右手の手をひらひらと振るように薫りを導く。


「うーん、これは丁子ちょうじの薫りどすなぁー。いい薫りや。なかなかよい具合に調合してある。大したもんや」

 具視はそれを嬉しそうに頬に当てた。


「入道――。お前、こうにも詳しいんか?」


「当たり前や、香は位の高い者の嗜みどすわ。それぞれの家によっても特別の香があるもんや。さすが門跡宮坊官の孫、香の道もたしなんでおられるんどすなぁー」


「あぁ、あの子はなんでも出来る娘や。村一番の出来のいい娘や。今度紹介したるわ。あっ、そやそや。あの子の前では腰を振ったらあかんぞ。それこそ、法印はんに追い出されるさかいな」

 航は具視をみて大笑いした。


「入道、自分では分らんやろうが、お前は知らんうちに影から護られとる。お喜久はんや、法印はん、それに音羽の鬼とかにな。あっ、そや、これからは順の香にもな。自分ひとりやと思わんほうがええ。寂しいかも分らんけど、頑張って暮らしや」

 航は、肉のほとんどない、やせ細った具視の肩を叩いた。


「ほな、行くわ」

 見下ろすようにして立ち上がると、振り返らず出口に向う。


 土間には、手をあげた航の影を抜きとるように、が差し込んでいた。


   (第二十三話 了 / 第一章 了)

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