第33話 ⚠️ 永禄十一年(1568年)秋:狂気と崩壊、京都への道

 神崎ユウダイは、その一報を聞いた瞬間、全身の力が抜けるのを感じた。

​「桃尻エリカ、シャブで降板……」

​ その言葉は、スタジオの暗闇に渦巻く狂気の嵐の中で、わずかに聞こえた現実の雷鳴だった。信長公の正妻、帰蝶(濃姫)役の女優、桃尻エリカの逮捕と降板。それは、ついにフィクションと現実の壁が、別の角度から崩壊したことを意味していた。薬物による逃避は、このスタジオの狂気から逃れるための、彼女なりの**「敦盛の舞」**だったのかもしれない。

​ 神崎の握りしめたトランシーバーに、十河監督の、喜びとも怒りともつかない甲高い声が響く。

​「なんだと!?帰蝶が逃げたか!結構!結構なことだ!信長公は、常に孤独だ!最も愛する者さえ、彼の狂気についてこられない!歴史の必然だ!よし、次の指示だ、神崎!」

​「か、監督、待ってください!帰蝶役がいなければ、斎藤道三との関係も、この後の安土での場面も……!」

 神崎は血相を変えて叫んだ。

​「関係ない!竹ノ塚!お前は、この孤独を、憎悪に変えろ!女に逃げられた王の怒りを、歴史に叩きつけろ!」

​ 竹ノ塚(信長)は、この現実の混乱さえ、役柄の一部として吸収していた。彼の視線は、もはやこのスタジオの誰も見ていない。彼の瞳には、尾張から京へ続く、血に濡れた道筋しか映っていなかった。

​その時、スタジオの非常口の扉が、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、姿を消していたはずの脚本家、滝沢だった。彼の顔は、以前より痩せこけていたが、その目には、狂気と対峙するための、冷たい決意が宿っていた。

​ 滝沢は、足元に積み上げられた、自身の胃液とインクで汚れた紙片を拾い上げた。

​「……十河監督。これ以上、勝手に進めるのは許さない」滝沢の声は、落ち着いていたが、張り詰めた糸のように鋭かった。「私は、この地獄に結末を書くために戻ってきた」

​ 十河監督は、メガホンを胸に当てて、不気味に笑った。

​「滝沢!お前が描く結末など、所詮、紙上の夢だ!私の脚本は、竹ノ塚の真剣と、流された血で書かれている!」

​「いいえ。あなたは、竹ノ塚という役者の魂を、ただの殺人機械に変えただけだ。私は、この物語を、一人の人間が迎える必然の悲劇として終わらせる」

【永禄十一年、京への上洛】

​ 地獄の脚本は、一時的に、脚本家と監督の間の、命を懸けた綱引きとなった。

​ 滝沢は、竹ノ塚(信長)の前に立ち、彼に新しい台詞の書かれた紙片を突きつけた。それは、織田信長が足利義昭を奉じて京に入り、天下布武の第一歩を踏み出す、歴史的な場面だった。

​「竹ノ塚さん。あなたは、孤独です。妻に去られ、狂気を深めた。その怒りを、京にぶつけるのです。京の都は、権威と秩序の象徴。それを、あなたの狂気で踏み躙りなさい」

​ 十河監督は、それを聞き、さらに声を荒げた。

​「そうだ!滝沢の台本など無視しろ!竹ノ塚!お前の怒りは、京の権威そのものを殺すための武器だ!権威とは、旧弊な役者、安部(家康)のような臆病者、そして、お前を拒絶した女たち、全てだ!」

​ 安部(家康)は、京の公家たち役のエキストラたちと共に、恐怖に震えながらセットに並んでいた。彼の視線は、竹ノ塚の腰に佩かれた、鈍く光る真剣に釘付けだ。

​「安部!お前は、信長公の威光の証人となれ!この狂気が、未来のお前を縛る鎖となることを、その目に焼き付けろ!」 

 十河監督が、安部に向かって叫んだ。

​ 竹ノ塚は、一歩ずつ京のセットの中心へ進む。彼の足取りは、もはや人間のそれではない。それは、五百年分の憎悪を積み重ねた、歴史の破壊者の歩みだった。

​ そして、竹ノ塚(信長)は、ただ一つの、冷たい命令を下した。

​「焼く」

​ 彼の声は、台詞ではなく、魂の深淵から湧き出た、純粋な破壊衝動だった。京のセットに、スタッフが仕込んでいた本物の火が点けられた。火は、瞬く間に京の町並みのセットを舐め尽くし始めた。

​神崎は、炎に照らされた竹ノ塚の顔を見た。その表情は、もはや役者でも、信長でもない。それは、全てを灰燼に帰そうとする炎の神の顔だった。

​ 滝沢は、その炎を見つめながら、静かに神崎に囁いた。

​「神崎、これが、私の書く最終章の導入だ。彼の狂気は、もはや周囲を殺すだけでは済まない。次は、彼自身を燃やすしかない。竹ノ塚を止めるには、彼が最も恐れる場所へ連れて行くしかない」

​ 狂気は京を焼き尽くしました。滝沢は結末を書くと言い、十河は炎でそれを加速させました。

​ 次なる舞台、竹ノ塚(信長)が最も恐れる場所。それは、京を制した後、必ず通らねばならない、狂気の頂点です。

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