芸術家の壁

とある古い木造アパートの203号室の話。

そこだけは、誰も借りようとしなかった。




「元々、芸術家の住まいだったらしいですがね」

管理人は煙草の灰を払いながら言った。

「血のような赤黒い絵の具を壁中に塗りつけて、部屋で自殺したんですよ」


俺はその部屋を好奇心から借りた。

入居した夏の夜。

部屋はひどく暗く、カビ臭い。

壁一面には、まるで指先で乱暴に擦りつけたような、乾いた赤黒い染みが広がっていた。


その夜、俺はダイニングテーブルで酒を飲んでいた。

ふと、染みが揺れた気がした。

よく見ると、赤黒い塊の一つ一つが、不規則な脈動を繰り返している。


恐ろしくなり、立ち上がろうとした瞬間、壁の塊が粘土のように蠢き、無数の小さな口を開いた。


チャプ、チャプ、チャプ……


壁全体から、不気味な水音が響く。

その口々は、部屋の空気を、家具の木目を、光の粒子を、猛烈な勢いで吸い込み始めた。


何が何だか意味もわからず、逃げようとする俺の体も、服の繊維から、皮膚、肉、骨へと、急速に薄くなり、壁の赤へと吸われていく。


あっという間に、全てが消えた。






―翌朝―

管理人が合鍵で203号室を開けたとき、綺麗な赤色の新しい壁紙を見て首を傾げた。

そして、ダイニングテーブルの上にある真新しい血のような赤い染みに気づき、すぐに目を逸らした。


「ああ、またか…」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る