第9話 玉露か甘露

 相手がどんな意図を持ち、どんな危険があるのかなんて知りません。知らない方がよさそうです。


 ですが、今この状況がなことだけはわかります。


 とりあえず逃げなければなりません。本来ならこんな現状をつらつら述べる前に至急動くべきなのですが――なんということでしょう。


 体が動きません。まるで重石が膝に乗っているようです。


 悲鳴すら上げられません。ただ、肺に空気が出入りするだけで。


 ◇ ◇ ◇


 黒々とした瞳が、にんまりと歪みました。


「動ケまセヌカ、然様さようデスとモ」


 彷徨っていた視線は、そこでがっちりと絡みつき、もう逸らすこともできません。

 

 一瞬で、私は文机に押さえつけられていました。

 幼子の手が、顎と頬に食い込みます。


「守りニ目くラマし。

 しカシ穴ガ空いテりゃ意味もなイでしョウや」


 老女の顔が、生え揃った白い歯を見せました。

 

 鬼さんがいつも浮かべる笑みとは異なります。

 彼は笑みでごまかし、隠します。


 しかし老女は笑みで、むき出しの殺意を見せつけ、私に呼びかけた。


「ナぁ、オ律おりつ様」

(……え?)


 どういう、ことですか。

 違う。その名前は私じゃない。この女が狙っているのは、私とは別の誰か。

 その名前は、私の――


「かヨうナ離れニ逃ゲ隠レヨうト、縁ハ断てマセヌえ?」


(まるで、私がつい最近ここに来たような)


「此処デ、終いニ致しマシょウ?」


(前々から、追ってきたような)


 指が、もう瘡蓋になっている細い傷に触れた。

 爪が、食い込む。


「赤ウテ、熱ウモのでスナぁ」


 血が滲む。私はただ、見ていることしかできません。


 動ければ。叫べれば。

 何か変わるのでしょうか。


 この状況を変えられる存在を、一人知っています。


 ですが、呼べません。呼ぶ名を知りません。私は、彼の名前を、知らないのです。


「イカな味で、いカな香リでシょウナぁ。玉露ぎょくろ甘露かんろ

 甘露がヨイでスなァ」


 歌うように言って、さらに爪が食い込んでくる。


 傷口は小さいのに、痛い。むしろ熱い。


 老女が光悦とした顔で傷から指を離し、爪先についた血を舐めた。


 ――だめだ。このままでは。


 喰 わ れ る。


「ヤハり、やハり、甘露でシタなァ!」


 カタカタとひび割れるような笑い声。


「モっと、もット」


 異形の口が開く。尖った犬歯が見えた。


 狙い定めるのは、同じく私の指。


 指に食い込む? 指が食われる? 指が、なくなる? 人違いで?


 弾けなくなる? もう弾けない? もう、


(あはは。 そんなこと、  断じて、   


 てぃん。


「何?」


 てぃん、てぃん、と二つの音。

 どこから鳴ったのか、一瞬分からなかった。

 でも、この音はよく知っている。体に染み込むほどに知っている三味線の音。

 袋に入ったままのはずなのに、妙に澄んだ音だった。


 二と三の音。

 

 調弦のような、撥も押さえもない――糸だけを爪弾いた音。


 弾き手のいない、二音が重なる。


 理由を考える余裕なんてありません。ただ、


「な、ニ?」


 拘束が外れた。体が動く。それが一番、重要です。


 両の肘を伸ばし、相手の胸元を突き押した。


 のけぞるように倒れ込んだ女から離れ、足袋のまま庭に飛び降りました。

 足袋が土を蹴る感触。今にも転けそう。でも、逃げなければ。

 

 女のいないところへ。女が追えないところへ。


「アな、アナ」


 ず、ず、ず。


 すぐさま近づいてくる。何かを引きずる音。引きずられる音。


 後ろは、決して振り向けません。


「口惜シや」


 ずる、ずる、ずる。


 狙うは血か、命そのものか。分からないことは、いっそう気味が悪い。


 寧ろと、誰かが言います。


 息が苦しい。足も重くなってきました。


 また、動けなくなるのでしょうか。

 また、喰われるのでしょうか。


「いや、です、ねぇ。体の、なまり、は」


 思い通りに、動かない。


 近くに来る。近づいてくる。


(あれ?)


 一瞬、見慣れた派手な柄が見えた気がした。

 違う。私が横を通り過ぎたのだ。


 さっきまでは何もなかった、誰もいなかった視界の端に紛れ込んだ、黒地に紅の彼岸柄。


 どうしてだろう。つんとした煙草の匂いまでしました。


「およしよ」


 声が、後ろからした。


 待ち望んで、でも呼べなかった声。


 振り返ると、何度も思い浮かべた着流しが見えました。


「…………ぉ……っ」


 口から出たのは、掠れた声。


 鬼さん――きっと私の後ろにいるのと同じ存在は、いつも通り庭先で煙管を片手に振り返り、私と前のものに目をやって、笑んだ。


「良い朝だねぇ」

「嫌味ですか!?」


 あまりの一言に、今度ははっきり声が出た。


「そうかい?」

「えぇ、えぇ、そうですとも!

 鬼さんから見れば愉快な追いかけっこでも、私にとっては命がけです!

 爽やかな朝の運動に見えますか、そうですねそうですか!!」

「……お前さん、」


 怒鳴って、しまいました。半ば八つ当たりです。


 ですが、鬼さんは途中で肩を震わせて笑っていました。


 いつものように黒地に派手な彼岸の着流し。


 びっくりするぐらい、腹が立つくらい、いつも通りです。


 あぁ、もう。取り乱してしまった自分が情けないです。


 そして、いつの間にか背中に匿われていることも、居たたまれません。


「庇ウか、そやツヲ」


 嗄れたような、瑞々しいような、敵意に満ちた歪んだ声。


 鬼さんの肩越しに、女らしき存在が見えました。


 先ほどより、さらに歪な異形です。

 私が突き飛ばしたせいでしょうか。

 両腕は裾から伸びて垂れ下がり、地面を引きずっています。

 先ほどの引きずる音の正体でしょう。


 あれは人の腕じゃありません。

 たとえ関節が外れたとしても、ありえない長さと形です。


「あっしも聞きたいねぇ。こいつの血、どうすんだい?」

「血? 甘露ノコとかエ?」


 けたけた、と女が笑った。笑うたびに、両腕が地面を擦る。


「美味そウダろう?」


 改めて、鳥肌が立った。


「橘のハちからを持ツト聞くガ、噂以上ノ味ヨ」


 橘とはこちらでの私の姓です。が何を指すのかは、わかりません。

 今はただ、聞くだけです。


「よしな。あんたには甘すぎる。腹ァ壊すぜ?」

「妬ミカえ? 喰えヌ己ヲ嘆カレまセや」


 鬼さんは、呆れを含んだ顔で言った。


「あっしは伝えたぜ?……あぁ」


 そして、何かに気付いたのか、ほんの少し目を見開いて、憐れみが混じる。


「…あんた、もう喰っちまったのかい」


 ごとり、と両の腕が落ちた。

 落ちたのだ。人の両腕が。いくら歪といえども。そんな、切れたわけでもなく。

 継ぎ目が外れたように、前触れもなく。


「ヌ? …何ト」

「あい、怖いなら目、閉じてな」


 鬼さんが私に声をかけてくれますが、私は凍りついたように目を動かせませんでした。


「……ぁ」


 女は、出血も悲鳴もなく、崩れていった。


 糸の切れた人形のように地面に潰れる。ゴロン、転がった首と、目が合った。


「アナ、疎マシい。あノ女、私ハ移さレテおリマシたカ。

 然り、然リ、あナた様ハ、形代かたしろにゴザいまシタか」

「かたしろ?」

「人の身デ、人ノ血で、私ヲ歪めタヨ」


 けたけたと老女の顔が笑えば、首も揺れる。


 鬼さんが動いた。

 一歩、二歩と歩み寄り、ぽとりと煙管の灰を落とす。女の衣に火がつく。

 青い炎が女の服も、手足も、皮膚も溶かして、形を崩す。

 悲鳴はなかった。ただ、炎の中でずっと、丸いものが揺れ動いていた。


 最後までずっと、笑っていた。


 否、嗤っていた。


 燃え尽きて、消えて。笑みを消した鬼さんは、地面を見たままです。


「かばねだよ」


 

 姓――ではなく、屍。


 死体、ということですか。


「最初は老女が、最後に童女が、あの橋で喰われたのさ」


 なに、に?


「元は、こやつさ」


 指差したのは、若い女人の艶やかな黒髪でした。


 それだけが、何故か一切燃えていません。


 鬼さんは懐から暗紫の風呂敷を出して、髪を包みました。


 きつくきつく結んで、また同じ場所に置けば、風呂敷は透けて、消えていきました。


 もう、全部、消えていってしまいました。


「まぁ、これでいいさ」

「………終わり、なのですか」

「そうさな」


 どうして――という質問には、答えてくれそうにありません。


 ならば、他のことを尋ねるだけです。


「どうして、ここに?」

「おんや」


 鬼さんは少し目を丸くして、可笑しそうに笑った。


「お前さんがあっしを呼んだろう?」

「私、が?」

「そいつでさ」


 示したのは、部屋の片隅の長袋。三味線が変わらず入っています。


「さっき、独りでに三味線が鳴りました」

「お前さんが呼んだからさ」

「鬼さんの名前、知りません」

「知らなくとも呼べたさ。二度目だからねぇ」


 初めて会ったのも、私が呼んだからと、言っていた気がします。

 地面に燻る塊を見る。私はたぶん、文字通りあの口に喰われかけたのだと思います。


「ありがとうございます」

「おや、簡単にあっしに礼を言っちまっていいのかい?」


 にぃ、と鬼が笑う。


「返す礼に、何を求めるか分かんねぇぜ?」


 確かに、そうですが……


 鬼さんはこちらを、じぃっと見つめました。


「何です?」

「いやに冷静と思えば。お前さん、ちぃとも頬が動いてねぇなぁ」


 笑えていない、と。むしろ、無表情だ、と。


 そうかもしれません。なんだか、顔が強張っているようです。


「気付いてなかったのかい」


 全然。どうしましょう。放心状態、なのでしょうか。頭が働いていません。

 鬼さんは何か言いたげに私を見て、しかし言わずに何かを投げました。


「こいつを」

「……わ」


 慌てて受け取ってみると、小さい黄色の輪。鬱金で染められた絹糸です。

 要は、一番細い三味線の一の糸でした。

 いつの間に。手品ですか。


「昨日は結局買えなかったろ」


 そういえば。昨日、買いに行きましたねぇ。

 昨日のことがすでに霞がかっていました。いけません。

 何故鬼さんが糸を持てるのか、は気にしたら駄目なのでしょうね。


「弾いとくれな」

「……はい」


 とりあえず、言われた通りに。それが礼になるならば。


 まずは糸を張って、調弦しましょう。


 あ、その前に。土だらけの足袋を、変えなければ。


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