第7話 堕ちた絃

「ここだねぇ」


 どこまで続くのか、いい加減腕に絡む指を引き剥がして問い詰めようか――

 そう思った矢先だった。


 鬼さんはぽつりと、独り言のように呟き、そのまま構えもなく一歩踏み出した。


 その瞬間、私の体が覚えた感触は――何といえばいいのだろう。


 極々薄い布をすり抜けたような。

 水面を突き抜けて、空気の中へ放り出されたような。

 肌の上を何かがゆっくりと剥がれ落ちていくような。


 と理解するより先に、はっきりと分かった。

 今まで鬼さんと歩いていた道は、ここではないだった、と。


 冷えた夜風が頬を撫で、草木の揺れる音が耳に戻ってくる。

 さっきまで漂っていた異臭も、すっかり消えていた。


 そして、ずっと私の腕を掴んでいた手がゆるりと離れる。


「もう目ェ開けな。話しても構わないぜ」


 許可が出たので眼を開けると、足元は見慣れた古木のそば。

 いつの間にか、足元や周囲を例の鬼火がふわりと照らしていた。


 背後には茂みと木立ち。

 ゆらりと景色が一瞬揺れた気がしたが――鬼火の揺らぎだろうか。


「帰るかい」

「あ、はい」


 顔を戻すと、鬼さんがいつもの曖昧な笑みを浮かべ、じ、と私を見下ろしていた。

 訊いても答える気のないときの顔だ。


 仕方ない。ならば現実的な問題を。


「あの、鬼さん。……いやに静か、ですね?」


 ふさ江さんの姿はない。

 なのに、屋敷が騒ぎになっている様子もない。


 変だ。騒がれていて当然なのだが。


「おんや」


 鬼さんも意外だったらしく、少しだけ目を丸くした。

 離れに続く獣道を見回し、古木を見て、何かに気付いたように「あぁ」と頷く。


「誤魔化してくれたようだねぇ」

「ふさ江さんが、ですか?」


 真っ先に母屋へ駆け込むと思ったのに。

 鬼さんはゆっくり首を振り、離れの方を見やって何やら楽しげに言った。


「羨ましいことだねぇ。あっしも相伴すりゃあよかった」


 ……何がですか。何をですか。


 今日の鬼さんは、一段と意味不明で意地悪だ。


 彼はさっさと背を向け、私が質問する前に歩き出してしまう。


 諦めて、石階段を降りていく着流し姿を追う。


 散々気になる発言をして、肝心なことは一切説明してくれない。

 このいじらしさは、たぶんわざとだ。

 私がこちら側のことをどれだけ訊いても、たいていはぐらかされるのだから。


 ……あれ、今、私より先に進んでる?


 夕方に「結界がどうのこうの」と言っていたはずだが。


「鬼さん、入れるのですか?」

「入れるさ。穴が空いちまってる」

「穴? 結界に、ですか?」


 振り向いた鬼さんは、呆れたように長く息を吐いた。


「お前さんが外に出たからだろうさ」

「私が外に出ると穴が空くのですか?」


 答えたところまでは良かったのだろう、鬼さんの眉間がわずかに寄る。

 という顔だ。

 すみません、分からないのです。こういうの理屈は。


「すみません、もう止めます」

「お前さん……変なところで疎いねぇ」


 変なところ、らしい。初歩も初歩らしい。


 鬼さんは前を向き、音も立てずに歩き続ける。

 私も鬼火の光を頼りに足元を見ながらついていく。


 離れに着くまで、二人とも無言だった。


 屋敷に上がり、いつもの庭に面した部屋に入る。

 私は置いてある臙脂色の長袋――三味線袋にそっと触れた。


 布越しに感じる重みと形。

 あぁ、本当にここにある。


 肩が下りる、とはこういうことを言うのだ。


 長い一日だったが、やっと落ち着ける。


 鬼さんの方を見ると、畳の上から何かを摘み上げていた。


 何だろう。差し出される。


「お前さんの留守を誤魔化してくれたもんさ」


 鬼さんの指先から、黄色の絹糸がひらりと垂れ下がっている。

 三味線の絃だ。端が赤茶に変色している。

 私が指を切った時についた血だろう。


 ……何故、ここに?


 糸は確かに空になった糸入れへ仕舞った。

 それがなぜ畳に?


 どういう意味だろう。

 とは。


「おや」


 絃が静かに畳へ落ちた。音もなく渦を描いて。


 だが鬼さんの手にも、まだ同じ絃が残っている。

 まるで、独りでに切れたかのようだった。


 私は声も出せず、ただ鬼さんの動きを見つめる。


 彼は膝をつき、落ちた絃を指でそっとなぞった。

 慈しむように、労わるように。


「限界だろうね。血の一滴で、よく保ったもんさ」


 その言葉を聞いた瞬間、なぜだろう。

 胸の奥がぽっかりと空いたようになった。


 堕ちた絃を見ていると――胸が、とても、痛い。


 さびしい?

 せつない?

 かなしい?


 よく分からない。けれど、泣きたくて仕方がない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る