第28話 二面性
隣国との戦が始まった──その報せが真田の城中に駆け巡った日、私は胸の奥にひやりとした風が吹き抜けるのを感じた。
「殿へ急ぎの報告にございます!」
表御殿へ駆け込んでいく家臣の声が、やけに鋭く耳に届いた。廊下にまで響いたその響きが、ただ事ではない空気を私の周囲に広げる。かつて千住の城で幾度も耳にした“戦”の気配が、はっきりと蘇ってくる。
……ああ、また戦が始まるのだ。
千住の姫として生まれた私は、戦がもたらす悲しみを嫌というほど知っていた。優しかった兄が、散っていった戦場。あの時の悲しみは今でも心の奥に棘のように刺さっている。
けれど、今の私は千住ではなく、真田の屋敷に居る。そして、戦に向かうのは、兄を奪った国の武将……私の夫である護泰様だ。
この半年──彼のそばで過ごした日々は、私の中の何かを、確かに変えていた。城下の民に向ける穏やかな眼差し、家臣を信じ任せ、しかし要所では揺るがぬ判断を下す姿。夜になると欠かさず私の傷を見に来て、指先に迷いを宿しながらも丁寧に手当てしてくれたあの時間。
なにより、護泰様はひと度も私に無遠慮に触れたことが無い。距離を縮めることを恐れるように、常に気遣い、常に一歩退いていた。
そんな人が、戦へ出る。
私はただ落ち着かずに城の廊下を歩き続けていた。障子を開けて外の空気を求め、庭を眺めればそこに彼が立っている錯覚さえ覚える。
花乃がそんな私を見て心配そうに声をかけてくれた。
「姫様、大丈夫でございますか。お顔色が…」
「平気よ。少し、思いを巡らせていただけ」
言葉ではそう言ったが、胸の内は平静ではなかった。
その日の夕刻、私は用があり表御殿の近くまで歩いた。障子の向こうから、静かな声が聞こえてくる。
「兵站はどうなっている。補給の見込みは」
「殿、こちらにございます地図をご覧ください。敵軍は──」
落ち着いた声色だが、いつもの柔らかな響きとは違う。戦を前にする指揮官の声。私が千住で聞いた武将たちの声にも似ている。冷静で、鋭くて、迷いの無い声。
気づけば私はその声に耳を澄まし、障子に触れぬよう背筋を伸ばして立ち尽くしていた。
真田護泰は、やはり真田の守護神なのだ。戦場では冷徹な策士であり、敵を倒す勇将であることは疑いようがない。
だが同時に──
私の傷に触れるとき、彼はとても優しかった。その指先は、誰かを傷つけるためのものではなく、痛みを取り除こうとするものだった。
その二つがどうして一つの人間の中に同居できるのか、私は分からなかった。ただ、そのどちらもが嘘ではないと、半年のあいだに私は理解してしまった。
気づけば胸を押さえていた。
……どうして、こんなにも心が締めつけられるのだろう。
戦に向かっていく護泰様の姿を思い浮かべると、喉がひどく渇いた。
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