第27話 戦の影
邦彦様が城を去ってから、すでに数日が過ぎていた。真田の城下には木々が青々と生い茂り、蒸し暑い日々が続いた。
季節は確かに前へ進んでいるのに、護泰様の心だけがどこか、足を止めているように思えた。
その変化は、些細なところから気づいた。
護泰様は言葉数の少ない人ではあるが、私といる時にはいつも気遣うような言葉を掛けてくれ、間に落ちる沈黙にも気を使われていた。
だが、最近は二人でいる時にもあまり話さず、沈黙が落ちている時は自らの思考の海へ沈んでいるようだった。
護泰様は、何を思い悩んでおられるのだろうか。
問いかけたい気持ちは、胸の奥で何度も膨らんでいる。けれど、私が触れてはならぬことのような気がして、言葉にはできなかった。
あの日。
邦彦様が去る朝、護泰様が見せた横顔は、強さと迷いとが同居するような複雑な色を帯びていた。
もしも私が、その迷いの原因であったなら……
そう思うと、胸の奥がひんやりと冷たくなるのだ。
「姫様!大変でございます!」
廊下を駆ける足音が聞こえ、家臣のひとりが息を切らして駆け込んだのは、ある日の午後だった。
障子を開ける音も焦りに滲み、ただならぬ空気が肌を刺す。
「どうしたの?」
胸が不安に軋む。
家臣は深く頭を下げてから言った。
「隣国の軍勢が、真田の北の国境付近に押し寄せているとの急報が……!」
「真田家中は、すでに軍議の準備に入っております!」
一瞬、頭が真っ白になる。
けれど次の瞬間には、護泰様の顔がまっ先に思い浮かんだ。
「……護泰様は?」
「すでに本丸へ向かわれ、城中の将たちと対応を協議されております。」
そう聞いた途端、心臓が大きく鳴った。
胸の奥の不安は、迷いなどではなく、冷たく鋭い恐れへと形を変えていく。
戦。
――真田に、戦が迫っている。
輿入れしてから月日が経ち、ようやく少しだけこの城に慣れはじめた頃。
その穏やかさを断ち切るように、戦の気配は押し寄せてきた。
「私も、様子を見に参ります」
口にすると同時に、ほんのわずか手が震える。
けれど、後戻りはしたくなかった。
護泰様が、何を背負い、何に立ち向かっているのか。
その姿から目を逸らしたくなかった。
急ぎ足で本丸へ向かうと、廊下には武具を整える侍たちの姿があり、
その緊張感に満ちた空気は、私の胸まで締めつけるようだった。
階段を上り、広間の前に立つと、内側からは低い声が重なり合う。
護泰様の声もその中に混じっていた。
落ち着いた声。
迷いなど微塵も感じさせぬ、真田家を束ねる者としての声。
その声音に耳を澄ませた瞬間、
胸の奥の震えが少しだけ和らぐのを感じた。
兄を討った武将として、長く胸の奥で恐れてきたはずなのに、戦を指揮するその声は不思議なほど頼もしく、私の中の恐れとはすでに別の色をしていた。
護泰様は、ただ畏れるべき存在ではなく――
私が無事を願ってしまう人になっていた。
この胸の奥の変化に気づいたとき、
私は思わず自分の両手を胸に押し当てた。
軍議が終わり、護泰様が広間から出てこられたのは、日がすっかり沈む頃だった。
灯籠の揺れる明かりに照らされる横顔は疲れているはずなのに、どこか張り詰めている。
その姿を目にした瞬間、
胸に迫る痛みが、はっきりと形を持って胸を締めつけた。
「綾乃……何故ここに?」
思慮も礼儀も曖昧になるほど、胸がざわめいていた。
「……戦の噂を耳にしました。どうか……」
どうか、と言いかけて、
口がきゅっと閉じてしまう。
無事でいてほしい。
戦へ行かないでほしい。
怖い。
そんな言葉を口にすることなどできない。
武将の妻として、それは決して許されぬ弱さだ。
私は言葉を飲み込み、深く頭を垂れた。
「どうか、ご自愛を。」
護泰様は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに静かに頷かれる。
「心配をかけたな。だが、大丈夫だ。」
大丈夫――その言葉ひとつが、
胸の奥に温かく広がっていった。
言葉ではなく、声の響きが優しい。
その優しさが胸に触れた瞬間、私はやっと息をつけた。
戦の影が城を覆い始める中で、
護泰様の声だけが、私の心を支えていた。
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