奇妙な今日がその証

富士宮 永一

前編

 教室に、僕が一人。


 傾き始める西日を細目に、窓を開けた。少し冷たいくらいの風が心地よい。


 騒がしかったクラスメイトも各々の活動へ散っていった。僕は自分の席で本を開いた。


 隣の席の男子は十歳から始めたサッカーを続けるらしい。


 斜め前の女子は生徒会に入るらしい。


 聞こうともしない話が耳に入ってくるのは盗み聞きをしているようで、なんだか窮屈だ。それに、オマエはどうなんだと指を差されているように思えた。


 四月二十一日。高校生になって、まだひと月経っていない。役目なんて想像もできない。

 ただ、そう急がずとも、と答えるつもりだった。


 ふと、足音が近づく。


 そちらへ気をとられた途端、机の上に個包装の菓子が一つ滑り込んできた。読みかけのページに栞を挟み、それを手に取る。浅紫のさらさらとした袋につい「高そうだ」と呟いた。


「お裾分け。なかなかだよ」


 僕の前の机に身体を預けながら話す友人、安重大賀あんじゅうたいが。彼からのお裾分けは、妙な頼み事があるときの常套句だった。


「話なら聞くけど」


 僕は菓子袋を弄りながら言った。大賀は「はやいね」と小さく笑って視線を合わせてきた。


「提案。読書に最適な場所を紹介するよ」

「その言い方は、どうかな」


 わざとらしく首を傾げてみた。彼は勿体ぶることなく答えた。


「文芸部。どうだい?」

「君から文化系に勧誘されるなんてね」


 彼とはつい先月までクラスメイトだった。中学の部活は卓球をしていたはずだ。別に運動部出身が楽器を奏でても、茶を点てるも自由だが。


「姉が文芸部にいてね。諸先輩方が卒業して、今の部員は二人になっちゃった。あと二人足りない」


 彼のピースサインの右手が揺れる。

 確かに当校の最小部員数は四人とどこかで耳にした。


「そこで君と僕。手っ取り早い、効率的」


 僕は大賀の言葉を引き継ぐように言った。そう、効率的だ。それに、今の僕はその提案を待っていたような気がした。教室で読書に励むよりかは、成績表の項目を一つでも埋めるべきだろう。


 菓子袋を開けると一口大のクッキーが入っていた。目配せをする僕に「どうぞ」と大賀は勧める。深い紫のそれを口に入れると、ほろほろとした食感に紫芋の落ち着いた甘さが広がる。ああ、好みの味だ。


「姉さんとは初対面だろうけど、読書の邪魔をするような人じゃない」


 そう言いながら机の位置を正す彼を見て、僕は机横のフックに掛けられた鞄を取り、本を仕舞った。


「それはよかった」


 でなかったら困るけど、と続けながら立ち上がった。話の流れからしてこのまま部室へ向かうのだろう。


「ま、入るも入らないも見てからでいいさ」


 教室の引き戸へ向かう彼の両手は空いていた。おそらく荷物はその部室で、僕の話もしてあるのかもしれない。そう思うと急にむず痒く感じた。風もなんだか温く思えた。


「あ、窓」


 その入り込んできた風に気付かされ、僕が開けた窓へ折り返した。





 廊下を歩く二人分の足音は必要以上に響いて聞こえた。


 文芸部の部室は、新入生の教室が集まる一階から階段で二階へ。選択科目のために用意された教室を利用している。ただ、数年前から授業で使われることは少なくなったという。


 隣には社会科の準備室、図書室とそれに隣接する資料室へと続く。この階で活動する部は文芸部と、あえて挙げるとすれば生徒会のみで、極端な音を出されては困りそうな部としては、好立地この上なく思えた。


「さ、ここが文芸部」


 案内された場所は他の教室と変わらないつくりに見えた。閉じてある出入口を見上げると、プレートには『選択A』とある。


 大賀は迷いなく引き戸をノックし、それをスライドした。僕は少し屈みながら中の様子を伺った。


 普段の授業で使われていたのであろう学習机の大半は教室のやや後方にまとめられていた。


 黒板の前には空欄の目立つ予定表がかかれた、遠目にも年季のあるホワイトボードが一つ。四月始まりの年間カレンダーがマグネットで止めてある。


 そして空いたスペースに学習机が四つ、向かい合わせで組まれている。そのうち二つの席に座っているのが大賀の言っていた先輩部員なのだろう。二人とも女子生徒だった。


 確かに二人と言っていたが『君のご姉弟ともう一人は?』とでも確認しておくべきだった。


 呆然としていると「おお、ほんとに連れてきた!」と一人が駆け寄ってきた。おそらくこちらが大賀のご姉弟だ。


「あ。初めまして、椿翔太朗つばきしょうたろうと申します」


 名乗って会釈をしてみたものの、なんだかぎこちない。


「あ。ご丁寧にどうも。大賀の姉の理緒りおです。一応、部長です」


 向かい合ってみると、確かに彼の姉なのだと納得できた。微笑んだ表情や雰囲気がどことなく似ている。背は姉弟でほぼ同じに見えるが、彼よりやや細身で制服が似合っていた。


「さ、折角なので座ってください。積もる話もあるようなので」

「なにも積もらないわよ」


 ホワイトボードが背になる席に僕、その正面に大賀が着くと、座ったままだったもう一人の女子、淘江静葉ゆるえしずはが言った。


 彼女とは小学校で知り合い、中学では同じ部にいた。そもそも学校の数が限られるこの地域では珍しいことでもない。この場で再会するとは思わなかったが。


「ま、元気そうならいいけど」

「おかげさまで」


 短く返す僕を一瞥すると、彼女は組まれた机の中央に手を伸ばした。つられて視線を動かすと化粧箱が置かれていた。ここに来る前に貰ったあの菓子がいくつか入っていた。


「美味しいわよ、これ。大賀が持ってきたやつだけど」


 僕の視線に気付いたのか、袋を一つ摘まみながら言った。


「ああ、うまかった」


 素直な感想を述べた僕に彼女は怪訝な表情を向けてきた。大賀は声を殺しながら笑っていた。


「二人の好みはそっくりのままで安心したよ」

「え、なに、私の反応を見てこいつを釣るお菓子を選んだの?」

「まった。菓子で釣られたわけじゃない」

「まあまあ。ほら、折角ここまで来たんだし」


 大賀はこの場を楽しんでいるが、静葉の視線が僕には痛い。


 切り替えようと、周囲を軽く見まわし話題を探して、一つ思いついた。


「そういえば、顧問の先生はどちらに?」

「佐藤先生は剣道部の顧問も兼任していて、普段はそっちに」


 部長の声は後ろから聞こえた。出入口からは見えなかったが、黒板の横にもう一つ机があり、電気ポットがコンセントに繋がれていた。


「インスタントだけどよかったら」と湯飲みが置かれ「どうも」と頂くことにした。


 二人も各々礼を言って受け取る。シンプルなほうじ茶だった。乾いていた口には有難い。


「佐藤……?」


 潤った口で名前を呟いてみてもピンとこない。


「二年五組の担任、国語科目の先生だね」


 と大賀が助け舟を出してくれた。それでも顔は浮かばなかったが。


「正直、部室には滅多に来なくて、鍵を借りに行くときに職員室で会えるかな、くらい」


 部長でこれだと、僕は当分会うことはなさそうだ。


「活動らしい活動も、文化祭に向けて文集を作るのがメインで、他は自由参加だからね」


 静葉がカレンダーを見上げ、簡潔に方針を述べる。顧問からしても、この部室では手持ち無沙汰なのだろう、とも言いたげだ。


 文化祭は秋の開催だったか。後ろへ振り返りカレンダーを見上げると、十月二十六日に赤丸が一つ。これか。寂しい。予定表が埋まらないのも自然だ。


「そうだ。先輩の文集を読んでみたら、イメージはわくかな」


 部長の提案に大賀が「ちゃんと取ってあるんだね」と興味を示した。


「資料室に」


 姉のそれを聞いて彼は「ああ」と驚きとも落胆ともとれる声を出した。


 そもそも、ここ文芸部は規定人数に達しない部としてピンチを招いていた。そこで部の活動をアピールする文集は必要になりそうなものだが、それは資料室に眠っているというではないか。まあ、毎年そうだったのだろうなとも思う。


「ここに本棚があればよかったね」


 大賀に同意だ。

 ただ、授業で使っていた部屋には備品を置きづらかったのだろう。





 ――さて、今日はこの後もあたりさわりのない雑談で時間は流れ、ほとんどの生徒が帰宅する午後六時が近づいた。


 僕としては一向に構わないが、結局読みかけの本を鞄から取り出すことはなかった。

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