第13話
奉行と「孤独」な観戦者
「……非合理的だ。あまりにも」
南町奉行所、奉行執務室。
佐藤健義は、山積みになった決裁書類(和紙の束)を前に、本日何度目か分からないため息をついた。
「なんで私が、町人の『夫婦喧嘩の仲裁』から『犬の飼い主探し』まで決済せねばならんのだ。司法と行政の分離はどうなっている」
「へえへえ。それがお奉行様の仕事でさあ」
部屋の隅で、同心・平上雪之丞が煎餅をかじりながら寝転がっている。
「文句言ってねえで、さっさと判子(ハンコ)押してくださいよ。それが終わらねえと、アッシも帰れねえ」
「貴様は帰って酒を飲みたいだけだろう!」
佐藤は筆を投げ捨てそうになるのを堪えた。
ストレスが限界だった。
現代の法廷(職場)なら、このイライラをタバスコたっぷりの激辛カレーで吹き飛ばせる。
だが、この江戸には唐辛子(七味)はあるが、あの突き抜けるような酸味と辛味の爆弾「タバスコ」が存在しない。
(カプサイシンが足りない……。思考が鈍る……)
佐藤が机に突っ伏して絶望していた、その時だった。
「――上様(うえさま)より、御召(おめ)しである!」
奉行所の空気が凍り付いた。
現れたのは、江戸城からの使者。
雪之丞が飛び起きて煎餅を隠し、佐藤は慌てて居住まいを正す。
「上様……? 将軍家治公が、私に?」
「いかにも。佐藤奉行、直ちに登城せよ」
【江戸城・黒書院】
佐藤は、死ぬほどの緊張と共に、広大な畳の部屋に平伏していた。
襖(ふすま)の向こうには、この国の頂点、第10代将軍・徳川家治がいる。
(なぜだ。田沼(リベラ)や定信(デューラ)なら分かる。なぜ、ただの一介の奉行である私が?)
登城前、雪之丞に言われた言葉が脳裏をよぎる。
『いいですか、お奉行様。上様は無類の「将棋好き」で有名だ。
もし将棋のお相手をさせられるようなことがあったら……分かってやすね?
「接待将棋」ですぜ!
負けすぎず、勝ちすぎず、上様を「楽しませて」負けるんです!
間違っても、本気で勝ちに行ったり、あからさまな手抜きをしちゃいけませんぜ!』
(……無理だ)
佐藤の背中を冷や汗が伝う。
(私は「想定外」と「空気読み」が一番苦手なんだ!)
「――面(おもて)を上げよ」
静かな、しかし絶対的な威厳を持つ声。
佐藤が恐る恐る顔を上げると、そこには将棋盤を前に座る、一人の男がいた。
徳川家治。
田沼意次を重用し、政治を丸投げしている暗愚な将軍……という世間の評判とは裏腹に、その目は驚くほど理知的で、全てを見透かすように静かだった。
「佐藤健義。近頃、奉行所で『理(ことわり)』にこだわる、変わった裁きをしていると聞く」
「は、はっ……恐悦至極に存じます」
「堅苦しい挨拶はよい。……朕(ちん)は、退屈しておるのだ」
家治は、扇子で将棋盤を指した。
「貴殿、将棋の心得があるそうだな。……一局、付き合え」
(来た……!)
佐藤の胃がキリキリと痛む。これは、ただの遊戯ではない。将軍による「面接(しけん)」だ。
「……承知いたしました」
対局が始まった。
佐藤は、必死に計算していた。
将棋の盤面ではない。「いかにして、自然に負けるか」という政治的(ポリティカル)な計算を。
(相手は将軍。ここは、中盤で競り合いを演出しつつ、終盤で僅差で競り負けるのがベスト……)
だが、数手進んで、佐藤は違和感を覚えた。
(……強い)
家治の指し手は、定石を外れた古風なものだが、筋が良い。
「接待」されていることに慣れきった裸の王様ではない。本気で勝ちに来ている。
「どうした、奉行。手が止まっておるぞ」
「は、はい……」
佐藤は焦った。
手加減しようとすると、どうしても手が不自然になる。
論理的思考(ロジカルシンキング)の塊である佐藤にとって、「わざと悪手を指す」という行為は、自分自身の脳細胞を否定するような苦痛だった。
(くそっ、どうすれば……! ここで角(カク)を引くのは論理的にありえない! だが、取れば勝ってしまう!)
パチリ。
佐藤は、迷った挙句、中途半端な「緩手(ぬるて)」を指した。
その瞬間。
家治の目が、スッと細められた。
「……つまらぬ」
「っ!」
「貴殿の『理』とは、その程度のものか?
相手の顔色を窺い、盤面を歪める。
……それは、朕が毎日見飽きている、幕閣の古狸どもと同じだ」
家治の手が、駒箱に伸びる。
「興が削がれた。下がれ」
(終わった……)
佐藤は悟った。これは「不合格」の宣告だ。
このまま帰れば、奉行罷免、あるいは切腹。
その時。
佐藤の中で、プツンと何かが切れた。
タバスコ切れの禁断症状か、それとも法曹家としての矜持か。
「……お待ちください、上様」
「ん?」
「この局面。……私の『理』は、まだ死んでおりません」
佐藤は、家治の許しを得る前に、バシッ! と音を立てて駒を指した。
それは、先ほどの緩手を帳消しにする、強烈な「勝負手」。
接待など知ったことか。
俺は、俺のロジックで、この盤面を制圧する。
「ほう?」
家治の目に、光が戻る。
「……来るか」
そこからは、泥沼の真剣勝負だった。
相手が将軍であることも忘れ、佐藤は「アマプロ級」の脳味噌をフル回転させた。
現代の定石、鋭い寄せ、鉄壁の守り。
家治もまた、楽しげに、だが容赦なく攻め込んでくる。
そして、百手を超える激闘の末。
「……詰み、でございます」
佐藤は、将軍の玉(王)を、完璧に詰ませていた。
静寂。
御側用人たちが、顔面蒼白で震えている。将軍に勝つなど、万死に値する無礼。
(あ、やっちまった……)
我に返った佐藤は、血の気が引いた。
勝ってしまった。しかも、完膚なきまでに。
切腹。雪之丞の顔が浮かぶ。「だから言ったのに!」という声が聞こえる。
佐藤が、震えながら頭を下げようとした、その時。
「……ふ、ははは! はーっはっは!」
家治が、腹を抱えて笑い出した。
「見事! 実に見事だ! 朕の玉を、こうも鮮やかに討ち取るとは!」
「う、上様……?」
「貴様、嘘が下手だな」
家治は、笑い涙を拭いながら佐藤を見た。
「最初は媚びようとしていたが、途中から我慢できなくなったであろう?
……その『融通の利かなさ』。気に入った」
家治の表情が、柔らかなものから、為政者の鋭いものへと変わる。
「佐藤奉行。
今、江戸の盤面は、田沼と定信、二つの勢力がぶつかり合い、歪んでおる。
奴らは皆、自分の都合で盤面(じじつ)を曲げ、朕の目を曇らせようとする」
家治は、佐藤の目を真っ直ぐに見据えた。
「朕が欲しいのは、忖度(そんたく)する駒ではない。
盤面を正しく読み、たとえ相手が将軍であろうと、正しい手を指す『観戦者(レフェリー)』だ」
家治は、扇子を閉じた。
「佐藤健義。貴殿のその『理』で、この江戸の歪みを裁け。
田沼にも、定信にも、そして朕にも媚びるな。
……貴殿の『正義』が、朕の『目』となるのだ」
それは、田沼(金)でも定信(改革)でもない。
この国の最高権力者による、「中立」という名の最強のお墨付きだった。
「……ははっ! 謹んで、お受けいたします!」
佐藤は深く平伏した。
胃の痛みは消えていた。
タバスコはない。だが、このヒリヒリするような緊張感と、巨大な責任。
それは、佐藤健義にとって、何よりの刺激物(スパイス)だった。
奉行所に戻った佐藤は、雪之丞に迎えられた。
「お奉行様! 生きて帰ってきやしたか! ……で、勝負はどうなったんで?」
佐藤は、ニヤリと笑った。
「完勝だ。コテンパンにしてやったぞ」
「はあ!? 終わった……俺の借金も、俺の人生も……」
頭を抱える雪之丞を尻目に、佐藤は筆を取った。
「雪之丞、仕事だ。
相模屋という米問屋について、洗うぞ。
……バックに誰がいようと、関係ない。
俺には今、最強の『観戦者』がついているからな」
奉行・佐藤健義。
彼もまた、江戸という巨大な盤面において、独自の「王手」をかける準備を整えたのだった。
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