第12話

検察官と「白(シロ)」の改革者

「……ぬるい!」

火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官詰所に、堂羅デューラの怒声が響き渡った。

彼が叩きつけたのは、部下が持ってきた捜査報告書だ。

「賭場(とば)の手入れ、抜け荷(密輸)の摘発、どれもこれも小粒だ!

江戸の町には、もっと巨大な『悪』が蔓延(はびこ)っているはずだ。なぜその尻尾が掴めん!」

「は、はあ……しかし長官、これ以上の強引な探索は、町方(奉行所)との兼ね合いもございまして……」

部下が恐る恐る答えるが、デューラの目には焦燥の色が濃い。

(……クソッ。水野の一件以来、俺の『正義』は空回りしている)

先日の越後屋事件。

佐藤健義の奇策と、桜田リベラの裏工作により、冤罪(庄助)は防がれた。

だが、真犯人である「水野家の家臣」も、その背後にいた黒幕も、誰一人として法の裁きを受けていない。

「政治」という名の不可侵領域が、デューラの「検察官魂」を蝕んでいた。

「コーヒーが……カフェインが足りん」

デューラは、南蛮渡来の硝子瓶に入った、ただ苦いだけの黒い水(コーヒーの代用品として蘭に作らせた焦げた麦湯)をあおり、顔をしかめた。

「悪は、許さん。たとえ相手が誰であろうと」

その鬱憤を晴らすかのように、デューラはここ数日、田沼意次の息がかかった悪徳商人たちへの「見回り」を強化していた。

些細な帳簿の不備や、風紀の乱れを徹底的に糾弾するその姿は、商人たちから「鬼の堂羅」と恐れられ、同時に幕閣の一部からは「やりすぎだ」と疎まれていた。

その日の夕刻。

詰所の門番が、緊張した面持ちでデューラの元へ走ってきた。

「ちょ、長官! お客人が……!」

「アポ(予約)のない面会は断れと……」

「い、いいえ! 断れるようなお方ではございません! 『白河(しらかわ)』の……松平様が!」

「……松平?」

デューラの手が止まる。

白河藩主、松平定信。

将軍家治の従兄弟にあたり、田沼意次の金権政治を真っ向から批判する、清廉潔白な「改革派」の筆頭。

(なぜ、そんな大物が、俺のような現場の長官に?)

デューラが居住まいを正すと、部屋に入ってきたのは、まるで雪のように冷たく、研ぎ澄まされた刃のような気配を纏う男だった。

「……堂羅(どうら)。急な訪問、許されよ」

松平定信。

その目は、田沼の「合理性」とは対照的な、「倫理」と「規律」の光を宿していた。

「はっ。お目にかかれて光栄に存じます。……して、本日は」

「貴殿の『噂』を聞いてな」

定信は、立ったままデューラを見下ろした。

「最近、田沼の手先となっている商人どもを、厳しく取り締まっているそうだな。

幕閣の中には、貴殿を『空気が読めぬ』と批判する者も多い」

「……私は、法と正義に従っているまでです」

デューラは媚びることなく答える。

「悪に、田沼派も改革派もありません。法を犯す者は、すべからく罰せられるべきです」

その言葉を聞いた瞬間、定信の氷のような表情が、わずかに緩んだ。

「……見事だ」

定信は、満足げに頷いた。

「その『妥協なき正義』。今の腐敗した江戸にこそ、必要なものだ。

田沼は『金』で国を富ませると言うが、その実、人心は荒廃し、武士の魂は金垢(かねあか)にまみれている。

貴殿のような、厳格な法を執行する『鬼』こそが、この国を浄化するのだ」

定信は、一歩デューラに歩み寄った。

「堂羅。貴殿のその正義、私が支えよう」

「……貴方様が?」

「ああ。田沼の圧力に屈するな。

貴殿が正しいと思う道を行け。

幕閣からの雑音は、私が封じよう。

……貴殿は、私の『白き改革』の剣となれ」

それは、江戸で孤立無援になりかけていたデューラにとって、渡りに船の申し出だった。

だが、デューラは冷静だった。

(リベラは田沼についた。俺は定信か。……これもまた『政治』だ。俺を利用する気か?)

しかし、定信はデューラの迷いを見透かしたように、懐から一通の密書を取り出した。

「……疑うのも無理はない。だが、これを見れば、貴殿の『鬼』としての血が騒ぐはずだ」

デューラは、渡された書状を開いた。

そこに記されていたのは、江戸の米流通を一手に担う大商人「相模屋(さがみや)」に関する、驚くべき内部告発だった。

「……これは」

「相模屋は、田沼の懐刀(ふところがたな)。

表向きは真っ当な米問屋だが、裏では米を買い占め、意図的に価格を吊り上げている。

その暴利は、田沼への賄賂となり、民は飢えに苦しんでいる」

定信の声が、熱を帯びる。

「これは『経済活動』などではない。民への『虐待』であり、国家への『反逆』だ。

……堂羅。貴殿の力で、この巨悪を暴けるか?」

デューラの中で、スイッチが入る音がした。

買い占め。価格操作。そして、それによる民の貧困。

それは、現代の法でも許されざる「経済犯罪」であり、彼が最も憎む「弱者を踏みにじる悪」そのものだった。

(……利用されるなら、利用されてやる。

俺の目的は、政治じゃない。この『証拠(ネタ)』を使って、巨悪を法廷(おしらす)に引きずり出すことだ)

デューラは、密書を強く握りしめ、定信の目を真っ直ぐに見返した。

「……承知いたしました。

この堂羅の命に代えても、その『相模屋』の不正、暴いてご覧に入れます」

「うむ。頼んだぞ、火付盗賊改」

定信は、白く輝く希望をデューラに託し、去っていった。

詰所に残されたデューラは、手の中の密書を見つめた。

田沼派の資金源、相模屋。

これを叩けば、田沼意次本体にもダメージを与えられる。

それは、田沼の「道具」となった同期・リベラとの、全面対決を意味していた。

「……上等だ」

デューラは、苦い麦湯を一気に飲み干した。

「リベラ。お前が『金(グレー)』で世の中を回すなら、俺は『法(シロ)』でそれを断ち切る。

……覚悟しておけよ」

検察官・堂羅デューラは、最強の「改革者」という後ろ盾を得て、再び「悪」を狩る鬼へと変貌しようとしていた。

江戸の町に、米騒動という名の嵐が近づいていることを、まだ誰も知らない。

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