第2話

法(ルール)が通じない職場

【佐藤健義(奉行)サイド】

佐藤が足を踏み入れた「南町奉行所」は、彼の知る「裁判所」とは似ても似つかない場所だった。

墨と古い畳の匂い。武骨な侍たちが「おはようござんす」と雑に挨拶を交わし、刀を差したままそこらで茶をすすっている。

(秩序がない……)

佐藤は、脳内に流れ込んだ「奉行」としての記憶はそのままに、自らの「現代法曹」としての意識を必死に保っていた。

まずは、部下の掌握だ。適正かつ迅速な業務遂行のためには、トップダウンの意識改革が――

「あー……お奉行様。新任のご挨拶も結構ですが、ちいとばかり、ご融通願えやせんか?」

だらしない着流し、無精髭。どう見ても「やる気」という言葉を知らなさそうな男が、ポリポリと頭を掻きながら目の前に立っていた。

「……誰だ、君は」

「へい。同心の平上雪之丞(ひらうえゆきのじょう)と申します。で、さっきの『ご融通』なんですがね。懐が寒くて……」

金、つまり「借金」の申し込みである。

奉行所(職場)で、上司(奉行)に。

(……想定外だ)

佐藤の思考が、初めてのデートで裁判所を提案してビンタされた時以来のフリーズを起こす。

「貴様……! 武士(公務員)としての自覚はあるのか! それは職権乱用であり、場合によっては恐喝――」

「へいへい。堅いこたぁ抜きで。じゃあ、まずは一杯、景気づけに……」

「まだ昼前だ!」

佐藤の怒声が奉行所に響き渡る。

雪之丞は「今度のお奉行様は、どうも『融通』が利かねえや」とぼやきながら、のらりくらりとかわしていく。

佐藤は、この江戸の「法」の現場が、タバスコ(彼の精神安定剤)の無い世界以上に、理不尽で満ちていることを痛感した。

【堂羅デューラ(火盗改)サイド】

一方、デューラが送り込まれた「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため) 詰所」は、佐藤の奉行所とは対照的に、張り詰めた空気に満ちていた。

「悪を根絶する」という彼の信念に、ある意味で最も近い職場。

だが、デューラは苦虫を100匹噛み潰したような顔をしていた。

(コーヒーが、ない……!)

縁側で出された緑茶を睨みつけ、懐から「現代」の遺産である最後のコーヒーキャンディを一つ、奥歯で噛み砕く。

彼が苛立っている理由は、それだけではなかった。

「――長官様。昨日の『噂』、まとめときやした」

ひらひらと手を振りながら現れたのは、岡っ引きの女。早乙女蘭(さおとめらん)だ。彼女は緊迫した詰所の中で、一人だけ呑気に団子を頬張っている。

「噂?」

「へい。深川の長屋で、最近羽振りがいい連中がいるって。どうも、どこぞの蔵に忍び込んだとか……」

「……証拠は」

デューラが低い声で遮る。

「しょうこ?」

「証拠だ! 犯行の事実を裏付ける客観的な物証、あるいは信憑性のある人証だ! 貴様の言う『噂』など『伝聞法則』の例外にも当たらん!」

一瞬、詰所が静まり返る。

デューラは「しまった」と舌打ちした。現代の法律用語が口をついて出た。

蘭は、きょとんとした顔のまま、最後の団子を飲み込むと、にっこりと笑った。

「あらあら、難しいこって。ですが長官。江戸(ここ)じゃあ、火のない所に立った『噂』ほど、よく燃えるもんはねえんですよ?」

デューラは、自白(拷問)を強要する部下と、噂(伝聞)で動く岡っ引きに囲まれ、「被害者の無念を晴らす」という自らの正義が、この江戸では最も「証拠」から遠い場所にあることを悟った。

【桜田リベラ(公事師)サイド】

その頃。

豪商・桜田屋の屋敷で目覚めたリベラは、絹の布団の中で一人、笑みを浮かべていた。

(……最高だわ)

豪華絢爛な調度品。控える大勢の女中たち。

そして、彼女の(江戸の)父親が、あの「田沼意次」と極めて密接な関係にあるという「記憶」。

現代日本において、彼女の実家(財閥)の力は、法の下では常に「グレー」であり、時に「違法」ですらあった。

だが、この江戸は違う。

「お嬢様。お茶と、お菓子にございます」

「ありがとう」

最高級の玉露と、目にも鮮やかな和菓子。

リベラは優雅に一口含むと、傍らに置かれた「公事(訴訟)」に関する書類に目を通す。

(……ひどい。法も何もない。言ったもん勝ち、金を持ってるもん勝ち)

彼女の唇が、三日月を描く。

(佐藤くんが知ったら、卒倒しそうだわ。デューラくんが知ったら、激怒するでしょうね)

現代の法知識(ルール)に縛られ、身動きが取れなくなるであろう二人の同期を想う。

だが、リベラは違う。

彼女の武器――「人を籠絡する甘味」「財力」「手段を選ばない交渉術」――そのすべてが、この江戸では最強の「チート」となる。

「この力、使えますわね。……『罪を憎んで人を憎まず』。この江戸で、私のやり方で救える命が、きっとあるはずだわ」

リベラが新たな「法廷」での戦術を組み立て始めた、その時だった。

カン! カン! カン! カン!

遠くから、けたたましい半鐘(はんしょう)の音が響き渡る。

江戸の空気を震わせる、非常事態の合図。

奉行所の佐藤が雪之丞の怠惰ぶりに頭を抱えていると、部下が飛び込んできた。

「お奉行! 火事でございます! 大伝馬町の、越後屋(えちごや)から!」

火盗改詰所でデューラが蘭の「噂」に眉をひそめていると、部下が血相を変えて叫んだ。

「長官! 越後屋が燃えております! 火の回りがあまりに早い……これは『放火(ひつけ)』に違いありやせん!」

そして、桜田屋でリベラが茶を飲んでいると、番頭が駆け込んできた。

「お嬢様! 一大事にございます! 我らの商売敵……あの越後屋が、火に包まれて……!」

灰色の煙が、江戸の空を覆い尽くす。

三人の転生者が、否応なく「江戸の事件」に巻き込まれる。

彼らの最初の「裁き」が、今、始まろうとしていた。

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