夜を渡る葡萄の灯 街角のスズメ4
街角のスズメ
第1章 丘を渡る声
風には、記憶がある。
けれど、人はそれを“ざわめき”と呼ぶ。
わたし――ピッコロは、キャンティの丘を渡る風の上で、その声を聴いていた。
葡萄の列はまだ夜の名残を抱いていた。
露が房の隙間に沈み、冷えた土の香りと混ざる。
遠くのオリーブ林がわずかに揺れ、
葉と葉が触れ合う音が、目に見えない祈りのように続いていく。
丘は静かだった。
けれどその沈黙の奥に、確かに“声”がある。
火の跡を覚えている土の声。
灰を孕んだ風の声。
そして、誰かを赦そうとする声。
◆
石造りの蔵の扉が軋み、朝の光が差し込む。
灰のような髪の男――アドリアーノが現れた。
彼の手のひらは葡萄の皮のように厚く、
指先には火の跡がまだ微かに残っている。
「風が、変わったな。」
低い声が空気を震わせる。
その響きに、丘の風が一斉に方向を変えた。
まるで彼の言葉を理解しているように。
わたしは屋根の棟瓦に爪をかけ、羽を整える。
瓦の隙間から灰の粉が舞い上がる。
それは、もう冷たくはなかった。
時間の粉――そう呼びたくなるほど柔らかな温度をしていた。
アドリアーノは扉の前に立ち、丘を見渡す。
「火は、忘れない。」
独り言のような声。
けれど、風はそれを覚えていた。
何年も前、嵐の夜に蔵を焼いた炎。
葡萄を守ろうとした彼は、味覚を失った。
火の中で、風の匂いだけを覚えたという。
それ以来、彼は“味のない男”と呼ばれている。
だが、丘の人々は知っている。
彼のワインは、不思議な香りを持つ。
甘くも苦くもない。
ただ、“風そのもの”のような味がする。
◆
蔵の中には六つの樽が並んでいる。
ひとつだけ、新しい木目が光っていた。
アドリアーノは布をめくり、その口を覗き込む。
中から、かすかな呼吸のような音がした。
――トン。
まるで誰かが瓶の底で眠っているような、微かな響き。
わたしは首を傾げる。
それは風の声とよく似ていた。
「風を捕まえてみたいんだ。」
アドリアーノの声が、樽の中に落ちていく。
その言葉に、わたしの羽がふるえた。
風は捕まらない。
けれど、もしそれが叶うなら――
人は“風を飲む”ことができるのだろうか。
◆
丘の端で太陽が顔を出す。
影が長く伸び、葡萄が光を吸い始める。
露が一粒、房の先から落ちた。
その音が、鐘のように響く。
わたしは鳴いた。
チュン。
ひとつの音が、丘の空気に溶ける。
それは風への挨拶であり、
火の残り香への祈りでもあった。
朝が、丘に満ちていく。
風が再び歌いはじめた。
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