夜を渡る葡萄の灯 街角のスズメ4

街角のスズメ

第1章 丘を渡る声

風には、記憶がある。

けれど、人はそれを“ざわめき”と呼ぶ。

わたし――ピッコロは、キャンティの丘を渡る風の上で、その声を聴いていた。


葡萄の列はまだ夜の名残を抱いていた。

露が房の隙間に沈み、冷えた土の香りと混ざる。

遠くのオリーブ林がわずかに揺れ、

葉と葉が触れ合う音が、目に見えない祈りのように続いていく。


丘は静かだった。

けれどその沈黙の奥に、確かに“声”がある。

火の跡を覚えている土の声。

灰を孕んだ風の声。

そして、誰かを赦そうとする声。



石造りの蔵の扉が軋み、朝の光が差し込む。

灰のような髪の男――アドリアーノが現れた。

彼の手のひらは葡萄の皮のように厚く、

指先には火の跡がまだ微かに残っている。


「風が、変わったな。」

低い声が空気を震わせる。

その響きに、丘の風が一斉に方向を変えた。

まるで彼の言葉を理解しているように。


わたしは屋根の棟瓦に爪をかけ、羽を整える。

瓦の隙間から灰の粉が舞い上がる。

それは、もう冷たくはなかった。

時間の粉――そう呼びたくなるほど柔らかな温度をしていた。


アドリアーノは扉の前に立ち、丘を見渡す。

「火は、忘れない。」

独り言のような声。

けれど、風はそれを覚えていた。


何年も前、嵐の夜に蔵を焼いた炎。

葡萄を守ろうとした彼は、味覚を失った。

火の中で、風の匂いだけを覚えたという。

それ以来、彼は“味のない男”と呼ばれている。


だが、丘の人々は知っている。

彼のワインは、不思議な香りを持つ。

甘くも苦くもない。

ただ、“風そのもの”のような味がする。



蔵の中には六つの樽が並んでいる。

ひとつだけ、新しい木目が光っていた。

アドリアーノは布をめくり、その口を覗き込む。

中から、かすかな呼吸のような音がした。


――トン。


まるで誰かが瓶の底で眠っているような、微かな響き。

わたしは首を傾げる。

それは風の声とよく似ていた。


「風を捕まえてみたいんだ。」

アドリアーノの声が、樽の中に落ちていく。

その言葉に、わたしの羽がふるえた。


風は捕まらない。

けれど、もしそれが叶うなら――

人は“風を飲む”ことができるのだろうか。



丘の端で太陽が顔を出す。

影が長く伸び、葡萄が光を吸い始める。

露が一粒、房の先から落ちた。

その音が、鐘のように響く。


わたしは鳴いた。

チュン。

ひとつの音が、丘の空気に溶ける。


それは風への挨拶であり、

火の残り香への祈りでもあった。


朝が、丘に満ちていく。

風が再び歌いはじめた。

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