第2章 灰の葡萄
夜の名残りが、まだ畑の隅に残っていた。
黒ずんだ杭、焦げた蔓、ひび割れた石。
風はそこを静かに通り抜け、
まるでかつてここを焼いた炎の跡を探しているかのようだった。
わたし――ピッコロは、
アドリアーノの肩越しにその風を見ていた。
彼の手の中には小さなナイフ。
枯れた蔓を切り、灰を掬い、土へと撒く。
指先の動きは祈りに似ている。
言葉はなくても、土地はそれを聴いていた。
「灰は肥やしになる。」
アドリアーノが呟く。
だがその声の奥には、別の意味が宿っていた。
“燃えた記憶も、再び芽を出す”――
そんな響き。
丘の斜面には、焼け残った葡萄の幹がいくつか立っている。
皮が剥け、芯だけが残り、
そこから小さな芽が伸びていた。
風に触れるたび、灰が舞い上がり、朝の光を反射する。
「火の夜、風は北からだった。」
アドリアーノは遠くを見るように言った。
「風が炎を運び、丘を渡っていった。
まるで神が畑を焼き直したみたいにな。」
灰の匂いが、甘く、冷たい。
それは、終わりの匂いではなく、
まだ“赦されていない”ものの匂いだった。
わたしは地面に降り、炭のかけらをつつく。
黒い粉が空気に溶けると、
葡萄の香りがほんの少しだけ蘇る。
灰の中には、味が眠っていた。
◆
日が高くなるころ、
アドリアーノは古い帳を取り出した。
焦げた表紙の中には、
葡萄の品種や発酵の配合ではなく、
“年号”だけが並んでいる。
1972、1985、2001――
すべて“火の年”だ。
「この年のワインは、誰にも飲ませなかった。」
アドリアーノが言う。
「灰の匂いしかしなかったからな。」
風が一枚の紙をめくる。
わたしは思わず鳴いた。
「でも、その匂いも“味”のうちじゃないの?」
もちろん、彼には聞こえない。
けれど、その言葉は丘の風に乗った。
そして、不思議なことに、彼は微かに笑った。
「……そうかもしれんな。」
ひと呼吸置いてから続ける。
「だから今年は、灰の味を造ってみる。」
彼は土を掘り返し、
そこに灰を混ぜ込んだ。
黒い粒が、陽に光る。
焼けた過去を、未来の根へ戻すように。
「灰は、覚えている。」
その声は土の奥に沈み、
やがて風の音と重なった。
◆
午後の光が斜めに差し込む。
風の流れが変わる。
丘の奥から、鐘の音がひとつ響いた。
アドリアーノは顔を上げ、
その音の方角を見つめる。
「……また南からだ。」
灰が舞い、陽の光がちらつく。
その一粒がわたしの羽に落ち、
冷たく光った。
わたしは鳴く。
チュン、チュン。
二度。
その音が丘に染み込み、
灰の中の葡萄がわずかに震えた。
まるで、風の底で芽が息をするように。
灰の中には、
まだ赦されていない“味”があった。
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