第21話 兄の着物と、抜けない縫い目
その日の門の下は、朝から少し空気が重かった。空のせいではない。雲は薄くて、風もやわらかい。縄にかかった布も、いつもどおり揺れている。重いのは、人のほうだった。
「……武家だな」
直市が、門の外から近づいてくる影を見てぽつりと漏らした。
背筋の真っすぐな男が一人。年の頃は、直市より少し下くらいだろうか。浅い紺の羽織に、腰には刀。付き従う者はいない。
男は門の前で足を止め、一度深く息を吸ってから、門の下に足を踏み入れた。
「ここが、噂の──布を繋ぐ下人のいる門か」
言い方は少し偉そうだが、声には力がなかった。
「噂は勝手に歩く」
直市がぶっきらぼうに返す。
「布は、ここへ持ってきたやつだけ見る」
「それでよい」
男は、懐から包みを取り出した。手の甲には細かい傷がいくつも走っている。
「寺の坊主から聞いた。“死んだ者の着物を、別の誰かに着せる継ぎ方を知っている下人がいる”と」
「言い方をどうにかしろ、あの坊主」
直市が額を押さえ、菊は思わず苦笑した。
「座ってください」
菊が板を指すと、男は少しだけ戸惑った顔をしたあと、静かに膝をついた。武家らしい動きだが、どこかぎこちない。
「名は」
直市が問う。
「篠田 数馬」
「数を数えるほうか」
「そうだ。今は、数が一つ欠けておるがな」
自分で冗談めかした言い方をして、すぐに笑いを引っ込めた。
「……兄がおった」
包みをそっと開くと、濃い茶の着物が現れた。ところどころ擦り切れ、袖にはほつれた跡もある。だが、布そのものはまだしっかりしていた。
「戦で、死んだ」
その一言で、門の下の空気が少し冷えた気がした。
「城のそばの寺に運ばれてきたとき、お前のところの坊主が看取ったそうだ」
「蓮円さまですね」
「そうか。その坊主が言った。“布を捨てたくなければ、門の下に持っていけ”と」
男は着物の肩を撫でた。
「棺に入れて、焼いてしまうこともできた。だが……」
指先が、布をかすかに震わせる。
「こいつは、兄貴がずっと着ていた。“篠田の次男坊”だった頃の、最後の着物だ」
長男の死で、次男が「長男」になったのだろう。
「このまま土に返すには、まだ、布が生きすぎている」
「布が、生きている」
菊は、その言い回しに少しだけ胸がざわついた。
「じゃから、こう頼まれた。『お前が次の番を張れ』とな」
数馬は、自分の肩に手を当てる。
「兄貴の着物を、この身に合うように継いでほしい」
はっきりとした言葉だった。
「死んだ者の布を、生きている者が着る。そういう継ぎを、ここはやってくれるのだろう」
視線が、直市と菊の袖を順番にかすめていく。
「できるか」
直市はしばらく黙っていた。茶の着物を、袖から裾まで、目でなぞる。
「……布は、まだ持つ」
低い声が落ちる。
「膝の内側と、腰のところが少し弱ってるが、筋は死んでねぇ」
「筋」
「こいつがどこで転んだか、よく分かる布だ」
膝の擦り切れ、ほつれた袖。そこに、小さな継ぎの跡もいくつかある。
「何度も直しながら、戦場歩いたんだろう」
その言い方に、数馬の肩が一瞬震えた。
「……ああ」
「やろうと思えばできる」
直市は、布に手を置いた。
「だが、決めるのは布じゃねぇ」
「では誰だ」
「お前と、死人だ」
数馬の目が、かすかに細くなる。
「死人は、もう何も言わんぞ」
「言わねぇ分だけ、布が喋る」
直市は、茶の着物の袖を指先でつまんだ。
「“ここで剣を振った”“ここで血を浴びた”“ここで転んだ”」
縫い目をなぞるように、指が動く。
「全部、ここに残ってる」
「……それが、問題なのだ」
数馬は、包みの縁をぎゅっと握った。
「そんな布を、俺が着ていいものかどうかが」
声は低いが、言葉の奥には迷いが濃い。
◇
「焼いてしまうこともできた」
数馬は、もう一度同じことを言った。
「そうすれば、兄貴は完璧に“死んだ人間”になる。こいつも、ただの灰になる」
「ただの灰」
「だが、こうして残せば……」
指先が、着物の襟を握りしめる。
「こいつを着て、俺が戦場に出たとして」
「……」
「どこまでが兄貴で、どこからが俺か、分からなくなりそうでな」
ようやく、言葉になった本音だった。
「兄貴の肩の重さとか、膝の痛みとか、そういうものまで背負わされる気がする」
「背負いたくは、ないんですか」
気づくと、菊が口を挟んでいた。
「全部は」
数馬は即答した。
「兄貴は兄貴で、俺は俺だ。全部同じ顔をしてしまったら、どっちが死んで、どっちが生きているのか分からん」
「…………」
「だからこそ、ここに持ってきた」
数馬は菊をまっすぐ見た。
「姉でも母でもない、知らん娘に見てもらったほうが、まだ冷静に決められそうでな」
「冷静かどうかは分かりませんけど……布は見れます」
菊は、茶の着物にそっと手を伸ばした。
布は、思っていたよりあたたかい。
「これ、兄上の匂いはしますか」
問いながら、襟元に鼻を近づける。
「……少し、します」
汗と土と、油と、鉄の匂い。その奥に、寺の香と、なにか細い残り香。
「焼き場の煙じゃ」
数馬がぽつりと言う。
「城の外れで、まとめて焚かれたとき、こいつもそばにおったからな」
「焼かなかったんですよね」
「坊主が止めた」
数馬は短く息を吐いた。
「“この布はまだ、どこかへ行きたがっている顔をしている”と」
「布の顔」
また出た、布の顔。
「だからこう言われた。“行き先を決めてやれ。灰になるか、人になるか、お前が決めろ”と」
蓮円らしい言い方だった。
◇
「直市さん」
菊は顔を上げた。
「これ、どう継げると思いますか」
「膝と腰を、今のこいつより少しだけ甘くする」
「甘く?」
「兄貴は、“ちゃんと踏ん張るほうの脚”に、力を乗せていた。こいつをそのまま着たら、お前は同じところで踏ん張ることになる」
直市は、膝のあたりを指で軽く押した。
「同じ転び方をする」
「同じ転び方」
「それが嫌なら、少しだけ歩幅をずらす継ぎ方をする」
「歩幅を、ずらす」
「裾の長さを、お前の脚に合わせる。腰回りも、刀の位置も、お前の癖に合わせる」
茶の布の上に、見えない線を引くように指が動く。
「布の“筋”は残すが、足跡だけ少しずらす」
数馬の目が、わずかに見開かれた。
「そんなことが、できるのか」
「完全には無理だ」
直市はあっさり言う。
「どれだけ継いでも、兄貴が一度通った道は、布に残る。そこだけはどうにもならねぇ」
「…………」
「だが、お前が別のほうへ曲がる余地は作れる」
直市は、茶の袖を握る数馬の手を見た。
「“同じ方向を見ながら、別のところで転ぶ”くらいには」
数馬の喉が、ごくりと鳴る。
「それで、お前はどうしたい」
「どう、とは」
「灰にするか、袖にするかだ」
門の下に、短い沈黙が落ちた。
遠くでからすが一声鳴き、縄にかかった布が風に揺れる。
数馬は、茶の着物を両手で持ち上げた。
「……袖にしてくれ」
その声には、まだ迷いが残っていたが、逃げはなかった。
「灰にしたところで、兄貴の足の痛みが消えるわけじゃない」
「そうか」
「なら、せめてこの先の足の痛みくらいは、俺が勝手に決める」
まっすぐな言い方だった。
「兄貴と同じところで転んで膝を割ろうが、別のところで転んで泥をかぶろうが、その先で立つのは俺だ」
「……分かりました」
菊は、そっと頭を下げた。
「じゃあ、兄上の“筋”は残して、数馬さまの歩き方に合うように継ぎます」
「頼む」
数馬も、武家とは思えないほど深く頭を下げた。
◇
数馬が帰ったあと、門の下には茶の着物だけが残った。
「……どう思う」
直市が問う。
「もったいない、と思いました」
菊は正直に言った。
「焼いてしまうには、布がちゃんと生きてて」
「布の話じゃねぇ」
「人の、話ですか」
「兄貴の着物を着て戦に出る、ってやつの」
「……こわいです」
菊は、茶の袖をそっと撫でた。
「“兄上ならここで踏ん張ったかな”“ここで転ばなかったかな”って、考えてしまいそうで」
「だろうな」
「でも、“全部同じにはしたくない”って言ってたので」
数馬の顔が浮かぶ。
「兄上を捨てるわけじゃないけど、全部を真似するわけでもない、って」
「一番面倒な歩き方だ」
「でも、一番ちゃんとしてる気もします」
菊は、小さく笑った。
「じいさんも、そういう縫い方が好きでした」
「全部新しくするより、面倒だからな」
「でも、“誰が縫ったか分かる”からって」
茶色の布の中に、見知らぬ兄と、これから歩く弟の影が重なっていく。
「直市さん」
「なんだ」
「わたしたちが、変な継ぎ方をしたら」
「したら」
「兄上の足跡も、数馬さまの足跡も、変になってしまいますか」
「なるだろうな」
あっさり言われて、菊は一瞬固まる。
「だからこそ、迷う」
直市は、茶の袖を持ち上げた。
「迷いながら縫う縫い目は、ほどけやすい」
「じゃあ、どうすれば」
「決めてから縫う」
単純な言葉だった。
「“ここから先は弟の歩幅だ”って決めたところで、針を入れる」
「……決められますかね」
「決めるしかねぇ」
直市は、門の外のほうを一度見た。
「死人の布を、生きてる奴が着る継ぎは、ずっと前からここでやってきた」
「前から」
「死に装束を、そのまま火葬場に運ぶだけだった頃よりは、マシだ」
「マシ、ですか」
「少なくとも、“続き”がある」
茶の着物を板の上に広げ、直市はゆっくりとその上に紐を置いた。
「兄貴はここで止まった。弟は、ここから歩く」
紐の位置が、ほんの少しだけずれる。
「……歩き方は、決めるんですね」
「そうだ」
「じゃあ」
菊は、小さく息を吸い込んだ。
「兄上の袖の“重さ”は、そのまま残します」
「重さ」
「軽くしたら、嘘になる気がします」
「そうか」
「でも、裾は、数馬さまの膝に合うように切ります」
膝の位置に、指先で印をつけるまねをする。
「兄上の膝じゃなくて、今生きてる人の膝に合うように」
直市は、少しだけ目を細めた。
「……それで縫え」
「はい」
茶の布の上に、菊は針と糸を置いた。
◇
夕方、仕事を一区切りつけたあとで、菊は寺に寄った。
蓮円が、鐘のひもを途中まで引いたところで振り返る。
「どうじゃった」
「継ぐことになりました」
「ほう」
「灰ではなく、袖に」
「そうか」
蓮円は、鐘を鳴らさずに手を離した。
「死に装束は、いつも“あと一歩”で灰になるところじゃからな」
「はい」
「その一歩を、別の歩幅に変えてやれるなら、門の下も悪くない」
蓮円の目が笑う。
「お前は、どこからどこまでを、兄のものにして、どこからを弟のものにするんじゃ」
「裾と、膝は、弟のものにします」
「ふむ」
「でも、肩と、襟の重さは兄上のままです」
「重いまま、か」
「軽くすると、たぶん、嘘になるので」
蓮円は、しばし黙って菊を見たあと、ゆっくりとうなずいた。
「よい決め方じゃ」
「本当ですか」
「うむ。重さを誤魔化さん継ぎは、そう簡単にはほどけん」
その言葉に、菊の胸の奥の固まりが少しだけ解けた。
◇
門の下に戻ると、直市が茶の着物の肩を縫い始めていた。
「決めたんだろ」
「はい」
「じゃあ、迷わず縫え」
「迷ったら、どうなりますか」
「ひと針ぶん、ほどいてやる」
「それ、もったいないです」
「もったいねぇから、迷うな」
いつもの調子なのに、どこかやさしい。
菊は、茶の布の反対側に座った。
「……直市さん」
「なんだ」
「わたし、今、生きてる人のほうを見て縫えてますか」
「見てるだろ」
「どうして分かるんですか」
「布の顔が、“これから転ぶ”顔してる」
言い方は雑だが、不思議と安心した。
死んだ人の歩幅は、もう変わらない。
でも、生きてる人の歩幅は、これからいくらでも変えられる。
その歩幅に、針を合わせる。
茶の着物の肩に、新しい縫い目が一本、また一本と増えていく。
そのたびに、兄の足跡と弟の足跡のあいだに、細い道が一本、静かに敷かれていくような気がして、菊は針を持つ指先に、いつもより少しだけ力をこめた。
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