怜雄の仕事
「悔しい、また負けた」
七瀬が若干すねたようにほっぺを膨らませながら言った。普段はどちらかというとクールなのに、たまにこのような子供っぽい表情を見せるのはずるいと思う。
「言ったろ、勝つって」
怜雄はチェスや将棋などの頭を使うボードゲームで七瀬に負けたことはない。多分相手の考えを読んで、戦略を立てるという行為は自分の性に合っているのだろう。
「今日こそはいけるって思ったんだけど」
「終盤に罠に引っかからないようにすればいいんじゃない?」
「引っかけた人が何言ってるの」
そう言って七瀬はぷい、とそっぽを向いて最近はまっているという編み物をし始めた。怜雄も明日提出の数学の課題があったことを思い出し、カバンから教科書を取り出した。
課題を終わらせ、小説を1冊読み終わり、将棋界の藤井4段の活躍の話で盛り上がっているといつの間にか23時を過ぎていた。
「今日はどうする?」
「帰らない、ここに泊まる」
編み物から目も上げず七瀬は答えた。
「七瀬、最近家帰ってないだろ。たまには帰ったほうがいいんじゃない?」
「怜雄に言われたくないよ。怜雄だってほとんどここにいるくせに」
確かにそうだ。怜雄が言えることではない。両親が去った家に、2週間に1回は掃除をするために帰る七瀬と違って、怜雄は大体の時間をこの倉庫で過ごしているのだから。
「そういう怜雄こそ、お金とか、大丈夫なの?」
七瀬は何気ない調子で聞いてきた。まるで天気でも聞くような、軽い口調だった。
「ほら、怜雄って一人暮らしだけど、バイトとかも特にしてないじゃん」
「俺だってバイトぐらいしてるさ」
笑顔で、さも当然といった口調で返す。その表情とは裏腹に怜雄の頭の中では、最大級の警告のアラームが鳴っていた。
「どんなやつ?」
「ネットで少しね。俺がパソコン詳しいのは知ってるだろ?」
なんでこんな怪しい答えしか思いつかなかったんだろう。セキュリティーホールを見つけるときにはよどみなく動いてくれる脳内CPUは、こういう時に限って動作不良をおこしてしまう。
「例えば?」
マズい。ここまで来たら思い切って言うべきか?いや、それはだめだ。下手をしたら七瀬を巻き込んでしまう可能性がある。とにかく七瀬を納得させる答えを出さねばならない。
「お願い、話して」
脳内CPUはいまだ動作不良のままだ。落ち着け、とにかく何か言わなくては。そう思って怜雄は口を動かした。
「エロビデオの加工をはがして、無修正にしたものを売ってる」
気づいたら口からすべりでていた。なんで言ってしまったんだろうか。今まで怜雄がやった仕事の中で、一番七瀬に知られたくないものだ。
「軽蔑したろ?」
なんで自分の口はこうも思い通りに動いてくれないんだろうか。そんなことを自虐的な調子で言ったところで、七瀬の怒りに火に油を注ぐだけだ。
できるのならば今すぐこの勝手にしゃべる口を切り落としてやりたい。しかし、なぜかできないのだ。ただ全身がぷるぷると震えるだけ。脳からの指令を体が全身で拒否している。
「怜雄、落ち着いて。軽蔑なんてしない」
「そうか・・・・」
七瀬の言葉で緊張が一気に解け、思わず椅子からずり落ちそうになった。自分が変な汗を大量にかいていたことに気づいた。
「むしろ安心した。もっと危ないことやってるんじゃないかって、思ってたから」
七瀬が鼻声交じりの声で言った。
「なんで七瀬が泣いてんだよ」
笑いながら怜雄は七瀬を抱きしめた。七瀬が泣いているときは怜雄が抱きしめ、頭をなでる。お互い成長しても、これは変わらない。
そのことが怜雄には嬉しかった。せめて自分の前では素直な、ありのままの七瀬でいてほしい。腕の中に七瀬のぬくもりを感じながら、怜雄は強く思った。
2021年 桑原修一
始業のチャイムの1分前に桑原修一は教室に入り、自分の席に座った。遅刻ギリギリになったのは寝坊したからでもないし、少しでも家にいてだらだらしたかったわけでもない。ただこの憂鬱な学校という空間にいる時間を、一秒でも減らしたかったからだ。
修一が席に着くのを見るなり、にやにやとした様子で修一に近づく男3人組がいた。しゃべっていたクラスメイトたちが一瞬修一のほうを見て、またそれぞれの話に戻った。
「よう、桑原」
一人が声をかけたと同時に、修一のみずおちに重い衝撃が走った。その痛みに、椅子から落ち、うずくまる。
「誰がうずくまっていいなんて許可出したんだよ、なあ?」
「そうそう、そんなに痛がるなよ。ネタじゃねえか。まるで俺らがお前をいじめてるみたいに見えるだろ」
三人はそう言って笑いながら、うずくまる怜雄の背中に何度も蹴りを入れた。クラスメイトたちは不自然なほどに大きな声でしゃべり続けている。なんとも異常な空間だった。
大丈夫だ。あともう少し。耐えろ。耐えろ。修一はじっとして、蹴りの嵐を耐えた。
廊下から足音が聞こえる。その瞬間三人は修一を無理やり立たせ、自分たちのそれぞれの席に戻っていった。
ホームルームが始まっても三人のにやにやとした視線が、こちらに向いているのがわかる。
なぜ、こんなことをされなければいけないのか。わからないが、多分いじめがいのありそうなやつがクラスにいた。理由なんてそんなものだろう。
最初は気にかけてくれたクラスメイト、先生たちも時間が経つにつれ、修一と距離を置くようになった。
やつらの視線を感じるたびに、やつらの笑い声が頭の中で響く。他のことを考えようとしても常に付きまとってくる、忌々しい笑い声。そんな地獄から救い出してくれるような蜘蛛の糸は、今のところ自分には降りてきてくれない。
先生がホームルーム終了を告げると三人組がまたこっちに近づいてくる。これから始まる地獄を想像し、修一は身を固くした。
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