第2話

 飲まれていく。吞まれていく。私のお金が。


「なんでなんで。こんなはずじゃ」


 あまりの醜態っぷりに他の客が笑いながら背後を通り過ぎるのを感じたが、それどころじゃない。


「これまでお年玉を一円も使わずためてきた私のへそくりだぞ。返せっ。返せよおおおお」


 まるで体の一部でももぎとられたかのような怨嗟の叫びを私は放つ。

 焦りはコイン投入を急がせ、どうしようもなくアーム操作を荒くさせる。

 あっちへバッタン。

 こっちへパッタン。

 浮いては沈み。

 動いては戻る。

 絶叫できるのは元気な証、ということわざがあるかは知らないけれど、人は落ち込むとやがては無言になる。どんよりする。

 財布に伸びる手が、ぴたりと止まった。

 逡巡。躊躇。お札をつまもうとする指が虚空で震える。


「私いったい何やってんだ……。これならパンダコーヒー店で美味しいスイーツいっぱい食べれたじゃん。ソフトクリームたっぷりのクロノワール。チーズケーキ。モンブラン。てか、絶対このフィギュア買えたじゃん」


 ぼやいたところで時既に遅し。

 後の祭り。

 後悔先に立たず。

 覆水盆に返らず。

 先人たちの言っていたことが、いま我が身のことのように身に染みた。


「でもここでやめたら……」


 進むべきか戻るべき、それが問題だ。

 このままだと超絶余裕を持って出金してきたへそくりを使い切るかも知れない。

 でもワンチャンあと一手でミラクルが起きて勝てるかも知れない。

 頭がぼうっとして熱い。いつの間にか脇の下も妙に汗ばんでいて気持ち悪い。

 どうしよう。どうしたらいい。

 リベンジか、撤退か。

 勝利か、敗北か。


「うぅ、昨日だったらイケメンのお姉さんが助けてくれたのに」


 そうだ。そもそも私はそのお礼を言いに来たのだ。だというに別にそれほどほしくもないものに散財して追い詰められている。

 馬鹿。阿呆。なんという様だろう。きっと天罰だ。百円の神様が怒っているに違いない。


「きっとお礼も言わないで遊んでるからバチが当たったんだ」


 脱力してぼんやり店内を見渡すと、その人がいてあんぐりと顎が落ちる。彼女が景品を眺めているのが一目でわかった。美麗な顔とタイトな黒スーツ姿なので間違いない。

 否、見間違うはずがない。

 だって私はいま彼女に世界の誰より会いたかったのだから。


「うわーん、お姉さーん!」


 刹那、猪突猛進、気づけば抱きつき泣きついていた。


「うわっ、昨日の子。というかなんで泣いているの!」


 彼女もびっくりしていたが、そんな奇行に走った自分にもびっくりだ。


「だって、だって会いたかったんだもん」

「なんと、それは光栄だね」


 あられもない姿を晒す私とは対照的に、彼女は舞台役者のようにすらすら言葉を紡ぐ。イケメンなのはルックスだけじゃない、中身もだ。

 しばらく尻尾を振って興奮する犬のようになだめられて、私はようやく平静を取り戻した。


「すみません。取り乱しました。昨日のお礼と、お金をお返ししたくて探していました」

「別にそんなこといいのに」

「いえ、お姉さんは私の救世主です。そんな方をないがしろにしたら百円の神様に怒られます。てか怒られました」


 その説明に彼女は口を隠しておかしそうに肩を揺らした。その所作一つまで美しい。


「でもそこまで取り乱さなくても」


 そう言われて、私ははっと思い出した。思い出して一気に悲しくなった。もう感情が忙しい。ここだと喜怒哀楽が過労死する。


「う、実はそれが、また沼ってて……」

「なるほど、じゃあちょっと見せてみて」


 半ば期待交じりに涙目になっていると肩を抱かれたので、水を得た魚のごとく、私は憎きクレーンゲームの台に案内する。


「ここなんですけどぉ」

「昨日取ったのにまたほしいだなんて、よほど好きなんだねブリうさが」


 彼女が苦笑したので急に私は恥ずかしくなって俯くしかなかった。

 つい友達のために、なんて体のいいことを述べようとしたが、この際だから嘘はやめる。


「今度は自力で取りたいなと思って。でもやっぱりダメで」


 本当にださださである。二度も敗れて、二度も助けてもらおうとするなんて。


「うん。向上心があることはいいことだね。じゃあ老婆心ながらアドバイスをいくつかしてもいいかな」

「いくつでもおなしゃす」

「まず初歩的なことだけど、ブースを離れるときはキープポタンを押すこと」

「キープボタン?」

「プレイすると、キープしますかとタッチパネルに選択肢が出る。たとえば百円が足りなくて両替機に行くときにこれを押さないと、いい形の自分のやりかけが相手に奪われてしまう」

「それ絶対嫌です。殺します」

「なら殺さなくてもいいようにキープしよう」

「はい。そうします」


 つくづく自分の初心者だなと痛感する。プレイどうこう以前の問題が多すぎるような予感はある。事実、ただ漠然と遊びに来たニワカである。


「次にプレイについてだけど、泣いていたということはこの位置に来てから相当お金を使ったね」


 指摘する彼女の前には橋の間に完全にはまって動きが悪くなった、横になった箱がある。

 驚愕すべきことに図星だった。


「一目見ただけでよくわかりますね。そうなんです。ここから抜け出せなくて」

「これは完全横接地といって、いちばん悪い状態だ」

「え、でももうちょっとずらせば落ちそうなのに」


 意外な感想に私は唖然とする。ぴったり箱が収まっているということは、垂直にしたら橋幅に適合して落ちるはず。私はそう計算していたのだ。


「この状態から綺麗に落とすにはアームの爪を箱の角にピンポイントに当てて持ち上げるのが理想だけど、その目測や操作は上級者じゃないと難しい」

「はい、上級者じゃないれす」

「クレーンゲームの惜しいは別に惜しくないし、紙一重は別に紙一重じゃない」

「あと数ミリって感じなのになぁ」


 横接地、惜しいと執着していた形はそこまで悪かったのか。それなのにむきになって、なんて私は馬鹿なのだろう。まるでカモじゃないか。


「ここから落とすのは無理じゃない。角をとれば復帰もできる。でも自分の技術ではいくらかかるかわからない。ならどうするか?」


 私は生唾は飲み込み、彼女の回答を心待ちにする。

 起死回生の策とはいったい何なのか。

 迷える子羊の私に是非とも教えてほしい。


「そんなときは初期位置」

「へっ?」


 なんのこっちゃと思っていると、お姉さんは近くにいた店員さんを手慣れた感じで呼び止めて、箱の位置や形を最初のスタートの状態にいともあっさり戻してもらってしまった。

 えっ。


「えええっ、せっかくあそこまでがんばったのにっ」


 盛大に飛びのく私に彼女はやんわり首を振る。


「難しい形になったらそこでむきにならず初期位置に戻してもらうのが最善だよ。初期位置にお願いしますってお願いしたら店員は戻してくれるから、覚えておいて」

「いや、でも、そこまでに結構お金がががが」


 そんな裏技、というかオプションがあったのは初耳で目から鱗だけど、そんなことよりショックが大きい。悪魔かよ、とこの恩人に一瞬だけでも思ってしまったくらいだ。


「意地になって初期位置に戻したがらないのは初心者あるあるだよ。コンこるのはよくない」


 今度は何か謎の動詞みたいなのが飛び出てきた。


「こんこる?」

「通称コンコルド効果、あるいはサンクコスト効果」

「コンコルド、効果」

「昔、ある大きな会社が高性能の旅客機の開発に着手した。けれどそれは初期の段階で仮に完成しても採算が取れないことが予見できていた。でも既に莫大な資産と時間を投入してしまったあとだったから、こんなところでやめられるかー、とそのまま開発を進めてしまった。結果、その会社は倒産してしまった。コンコルド効果というのはね、これ以上やっても失敗するとわかっていてもこれまで投資したものが惜しくて続けてしまう悪しき心理のことだよ」


 ここでやめたらもったいないからといってさらに失敗を重ねるなんて馬鹿な人たちがいたもんだなぁ、と呑気に聞いていて、はっとした。


「それ完全にいまの私のことじゃないっすか!」

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