第17話 胸の奥で泣く声


「……みずは?」


影の少女がそっと呼んだ。

その声は優しいのに、どこか震えていた。


瑞葉は視線を上げる。

水底のように静かな世界の中で、

少女だけがはっきりと色を持っていた。


(この子……誰なんだろう……)


記憶は戻らない。

でも、胸の奥がずっとざわついていた。


胸のどこか……すごく深いところが、

誰かのためにじんと痛んでいる。


(……あの声……誰……?

泣きそうだった……)


思い出せないのが苦しい。


影の少女は、瑞葉の手にそっと触れようとした。


「大丈夫。

ここでは、怖いものはもう来ないよ。

みずはは……私が守るから。」


その言葉は本心だった。

けれど、その奥にある何かが

わずかに揺れているのがわかった。


瑞葉の心臓が軽く跳ねる。


(なんで……だろ……

この子は優しいのに……

なのに、なんだか……こわい……?)


少女の指先が瑞葉の手に触れる寸前——


「っ……」


瑞葉は反射的に手を引っ込めた。


胸の奥が、

“泣きそうな声”に強く引かれたからだ。


理由はわからない。

でも、その声だけは

置き去りにしてはいけない気がした。


少女の表情がかすかに揺れる。


「……どうして、手を……?」


声は静かだった。

けれど、その奥に小さな痛みが混ざった。


「ごめん……わからない……

でも……胸が……なんか……」


言葉にならないまま、

瑞葉は胸の辺りをそっと押さえた。


そこだけが、やけに熱くて、苦しい。


(誰かが……呼んでる……

助けを求めてるみたいに……)


影の少女は笑おうとした。

けれど、その笑みはどこか引きつっていた。


「……思い出さなくていいんだよ。

ここにいれば、全部……消えるから。」


その一瞬、

少女の瞳が微かに揺らいだ。


不安。

嫉妬。

そして、失うことへの強い恐れ。


世界の水面が、かすかに波打った。


瑞葉は小さく震えながら言う。


「……ごめん。

あなたが悪いわけじゃないの。

ただ……胸が……」


少女は瑞葉の頬に触れようとした。

その指先は優しいのに、

触れる直前で、わずかに震えていた。


「みずは……

お願い……ここにいて……」


その声は、

孤独を抱えた子どものように切なかった。


その瞬間——

遠くから、かすかな声が響いた。


——みずは……!


泣きそうで、必死で、あたたかい声。


胸が痛いほど震えた。


影の少女の瞳が大きく揺れる。


「……その声……聞いちゃだめ……」


瑞葉は息をのむ。


(……この子……

どうして……そんな顔……?)


少女の表情は、

“奪われる”ことを恐れているようだった。


瑞葉の胸の奥では、

あの声が何度も呼んでいた。


——みずは!!

消えないで!!


涙がにじみそうな、必死な声。


(……わたし……どうすれば……)


影の世界は、

2つの響きに引き裂かれるように揺れ始めた。

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