第16話 水底の記憶


——静かだ。


耳も、空気も、光も。

何もかもが深い水底のように静まり返っていた。


瑞葉はゆっくりと目を開けた。


天井はどこにもなかった。

代わりに、透き通る水の膜のような光が漂っている。


(……ここ……どこ……)


思い出そうとすると、

胸の奥がふっと空白になる。


誰かと話していた気がする。

誰かの声がしていた気がする。


でも、その“誰か”が思い出せない。


名前も、顔も、

何もかも霧の向こうにあるようにぼやけていた。


自分の名前だけが、かろうじて残っている。


(……みずは、だよね……

私は……みずは……)


胸の奥を確かめるように呟いたその時、

どこからか水音がした。


ぽちゃん。


水面が揺れるように、世界が震えた。


「……みずは」


声がした。


瑞葉ははっと顔を上げる。


水の膜の向こう、

影から誰かがこちらを見ていた。


それは——少女だった。


でも、普通の少女ではなかった。


瑞葉と同じくらいの背丈。

薄い光に溶けそうな輪郭。

深い水底のような瞳。


「ずっと……呼んでたんだよ」


少女が一歩、近づいた。


その一歩のたびに、世界の水面が静かに波打つ。


瑞葉は小さく後ずさった。


「……あなた……誰……?」


少女は悲しそうに微笑んだ。


「みずは。

思い出さなくていいよ。

ここでは、もう……痛くないから。」


(……思い出さなくていい……?)


瑞葉の胸がじんと熱くなる。

忘れているはずの何かが、

そこだけこすれるように疼いた。


少女はゆっくりと手を伸ばす。


「帰ってきてくれて、嬉しい。

みずはは……私から離れてしまった、

もう一人の私だから。」


その言葉に胸の奥が微かに震えた。


(……帰ってきた……?

“離れた”……?)


記憶は戻らない。


けれど、少女の声は

どうしようもないほど懐かしかった。


瑞葉は、知らず知らずのうちに

その手に触れようとしていた。


遠くで——


聞こえるはずのない声がした。


——みずは!!


誰かが、自分の名前を叫んでいる。


男の子の声。

熱くて、必死で、泣きそうな声。


(誰……?

どうして……)


少女の表情が一瞬だけ歪んだ。


「……あの声は、聞かなくていい。」


瑞葉の指先が震える。


現実の記憶はなくても、

胸の奥にだけ、

あの声が温かく残っていた。


(……わからない……

でも……あの声……すごく……)


少女は瑞葉の手をそっと包む。


「大丈夫。

ここでは“思い出さなくていい”んだよ、みずは。」


世界が再び、水底のように静まった。

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