第1話:冴えない男と、森と、一服

「……ん……?」

むせ返るような土の匂いと、湿った空気。背中に当たる硬い感触。

ゆっくりと目を開けると、視界は鬱蒼(うっそう)と茂る木々に覆われていた。見たこともないキノコ、生い茂るシダ植物。遠くから響く不気味な鳴り声。

「……どこだ、ここ。まさか本当に異世界なのか?」

俺、山口タケルは、どうやら見知らぬ森のど真ん中に「落ちて」きたらしい。

のそりと体を起こす。屋上から落ちた時の痛みはない。服装は…泥だらけの安物スーツのままだ。

「あ…」

慌てて胸ポケットに手を入れる。あった。神様(仮)にもらった、タバコの箱。

次に、スラックスの右ポケット。あった。銀色のオイルライター。

「夢じゃ…なかったのか」

そうと分かれば、やることは一つだ。

俺は『無限補充のアッシュモーク(常世の煙草箱)』から、一本を取り出す。

…取り出した瞬間、箱が再び満タンになっている。

次に『万能なる不死鳥(フェニックス)のライター』を手に取り、ホイールを回した。

ゴオォォッ!!

「うおっ!?」

想像以上の勢いで、火柱が上がった。顔のすぐそばなのに熱波は一切感じない。

「あぶねぇ…『豆粒ほどの火』…!」

慌てて強く念じると、炎はスッと収まり、使い慣れたサイズになった。

…なるほど、「意思」でコントロールするらしい。

「ふぅ…」

改めてタバコの先端に火を移す。

ゆっくりと、肺の奥深くまで、この世のものとは思えない芳醇な煙を吸い込む。

「―――ぷはぁぁああ……」

雑味のないクリアな煙が全身を駆け巡り、吐き出すと同時に、体にまとわりつくような重さがフッと消え、代わりに力がみなぎってくる感覚があった。

(これが…吸うほど健康になる煙草…)

「さて…」

チートアイテムの存在を確認し、最高の一服で落ち着きを取り戻した俺は、ゆっくりと立ち上がった。

「とりあえず、このヤバそうな森、抜け出さないとな」

こうして俺の異世界生活は、森のど真ん中、スーツ姿にタバコ一丁という、我ながら冴えない格好でスタートした。

とはいえ、スタートしたはいいが、何から手をつければいいのか。

俺は35歳、サラリーマン人生13年だが、サバイバルの知識など一切学んでこなかった。

おまけに、この革靴。ビジネスマンの戦闘服()も、こんな場所では最悪の装備だ。

「ガサガサッ」

「!?」

わずかな物音に、心臓が跳ね上がる。

見ると、足元のシダ植物の陰から現れたのは、俺の拳(こぶし)ほどもある巨大なクモだった。しかも、毒々しい紫色の斑点模様だ。

「うわっ…」

思わず後ずさる。

クモはこちらを一瞥(いちべつ)すると、興味を失ったように別の茂みへと消えていった。

「……マジかよ。ブラック企業よりハードモードじゃねえか、ここ」

さっきまでの妙な落ち着きは消え、冷汗が背中を伝う。

あの神様、こんな場所にスーツ姿のまま放り出すとか、いくらなんでも雑すぎるだろ。

(いや、落ち着け俺。アイテムがある)

俺は右手のライターを握りしめる。

『ドラゴンをも焼き尽くす灼熱の炎』。

これが、今の俺の唯一にして最大の武器だ。

「……よし」

とはいえ、喉が渇いた。生暖かい湿った空気のせいで、余計に喉がカラカラだ。

まずは水場を探すべきだ。

俺は、かすかな傾斜を頼りに、水が流れそうな低い場所を目指して歩き続けた。

―――どれくらい歩いただろうか。

不意に、耳が「音」を捉えた。

(……チョロチョロ…)

(水!?)

俺は音のする方へ、夢中で茂みをかき分けた。

そして。

「……あった!」

視界が開け、そこには小さな川が流れていた。

幅は5メートルほどだろうか。水は少し濁っている。透明ではないが、泥水というほどでもない。なぜ濁っているのかは分からないが、今は贅沢を言っていられない。

「水だ! 助かった…!」

俺は川辺に駆け寄り、ゴツゴツした岩に腰を下ろした。

(生き残れる…!)

ブラック企業から逃げ出し、異世界に落ち、わけもわからず森をさまよっていた俺にとって、この「川」は、初めて見つけた**「生命線」**だった。

(まずは一服だ)

俺は立ち止まり、この僥倖(ぎょうこう)に感謝しつつ、状況把握と体力回復を兼ねて、胸ポケットに手を伸ばした。

最高の一服で、この川を拠点にどう動くか考えよう―――

―――グルルルル……

「!」

低い、唸り声。

それは、川のせせらぎ音の向こう側、対岸の茂みから聞こえてきた。

(第1話 完)

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