第17話 罪人の学び舎

 午前七時。


 無機質なチャイム音と看守の怒号で、私は強制的に覚醒させられた。


「起床! 布団上げろ! 動作、迅速に!」


 薄く硬い布団から、ゆっくりと体を起こした。


「おい新入り、トロトロすんな。かどを揃えろよ。このブタ箱じゃ、素早く丁寧な奴ほど評価されるんだ」


 隣の男が、不機嫌そうに声を掛けてきた。五十代半ば。背中の刺青がシャツから透けて見える。指定暴力団の構成員か。


 ここは、上野警察署四階の留置場。

 通称――ブタ箱らしい。


 面白い。


 人間は別の動物の呼称を用いて、己より下等だと差別化する生物らしい。だが、私から言わせれば、その比喩は豚に対する著しい侮辱に値する。


「なぜ、ブタ箱なんだ」


「今じゃ、それほどでもないが、ここが劣悪で不衛生だからに決まってんだろ。俺たちは豚小屋に入れられてるようなもんだ」


「なぜ、そんなに悲観的なのか理解できんな。客観的なスペックを比較すれば、貴様より、豚の方が遥かに優秀な生物だ」


 男に突然、胸ぐらを掴まれた。


「てめぇ、舐めてんのか。もういっぺん、言ってみろ」


「第一に、エネルギー変換効率の違いだ。豚の飼料要求率 F C R はおよそ三・〇。つまり、三キロの餌を与えれば、一キロの肉――つまり、価値を生み出す、極めて高効率なバイオリアクターだ」


「何、言ってんだてめぇ」


「対して、貴様はどうだ? 成人するまでに数トンの食料と、莫大な教育コストを浪費し、結果として出力したのが強盗や詐欺という社会的な損害エラーだけ。 コストパフォーマンスが悪すぎる不良債権に過ぎん」


 男の目が見開かれた。


 喉がさっきよりも、さらに絞め上げられる。呼吸の仕方を工夫すれば、何の問題もない。


「……殺されてぇのか?」


「まだ話の途中だ。第二に、生物としての潔癖さ。豚は本来、寝床と排泄場所を厳格に分けるきれい好きな生物だ。狭い場所に押し込め、糞尿まみれにしているのは、管理する人間側の都合に過ぎない。それに比べて、この檻の中の臭気はどうだ。自制心を失い、欲望のままに罪を犯し、風呂にも入らず体臭を撒き散らす貴様の方が、よほど不潔な獣に近い」


 私は男の両手を掴んで、さらに自分の首を絞め上げた。


 呼吸の制限をすれば、喋れなくなるとでも思ってるのだろうか。


「やめろ……」


「最後に、第三だ。この星における社会的貢献度を見ろ。不本意ながらも豚は肉となり、皮となり、その心臓弁に至っては、人間の移植手術にも使われる。死してなお、他者の命を救う聖人のごとき献身性がある。一方の貴様は、生きていても他人の金を奪い、死んでも借金を残す始末だ」


「おい、何が言いたい。てめぇの遺言はそれで全てか?」


「結論、ここはブタ箱などという高尚な場所ではない。単なる燃えないゴミの集積所と呼ぶのが、論理的に正しいだろう」


 視界の隅で、看守が鉄格子を殴り付けた。


「おい! 1678番。何をしてる!」


 男が慌てて、私の襟首を解放した。これで、ブタ箱の正しい解釈を理解できただろうか。


 酸欠で咳き込むことも、恐怖で震えることもない。


 私は乱れた襟元を、指先で幾何学的に整えた。


「……チッ。気味の悪ぃ野郎だ」


 1678番は、忌々しそうに吐き捨てた。だが、その目には明らかな畏怖が混じっていた。


 暴力がコミュニケーションの基盤であるコイツにとって、痛みを恐れない相手は最も対処に困るバグだからだ。


 もう一人の同居人がようやく目を覚ます。


「番号、点呼!」


 鉄格子の向こうから、号令が響く。


「一番、異常なしだ」

「二番、異常ありません」


 私は看守を見つめながら、ただ立ち尽くした。


「おい、三番! 何やってる?」


「私が三番か? 上野2574の整理番号はどうした?」


「指示に従え! 点呼の際は、一番からの連番だ」


「貴様らは数学の美しさを理解していない。最も基本的な素数たる三は、どんな変数を用いても、2574と等しくなることはない」


「黙れ! 点呼!」


「2574番さん。頼むよ、従いな。看守に歯向かえば、この房に目をつけられるからさ」


 他の二人は、すっかりと看守の犬に成り下がっている。


 仕方ない連中だ。


「一番、異常なしだ」

「二番、異常ありません」


「三番、異常だらけの世界だが、異常なしと看做みなしてやろう」


 看守が、何に腹を立てたのか、警棒で鉄格子を殴りつけた。


 ――軍隊のような朝の儀式。


 国家権力が個人を摩耗させ、思考停止した部品へと加工するための最初のプログラムだ。


 私は布団を畳んだ。


 布団の折り目が数センチずれただけで、看守が飛んできて罵声を浴びせるのだ。


 整理整頓ではない。理不尽への服従を刷り込むための訓練。


 私はミリ単位の精度で布団を四角形に整え、所定の位置に置いてやった。定規で測ったような直角。


 看守が、文句をつける隙を探して私の布団を凝視したが、息を呑んだだけだった。


「へえ、手先は器用なんだねえ。ボクは結婚詐欺で、お縄なんだ。よろしく」


 もう一人の同房者が、ニヤニヤと笑いかけてきた。


 三十代後半。痩せ型で、人の良さそうなタレ目をしているが、瞳の奥が爬虫類のように冷たい。


「君の名前は?」


「何度も言わせるな。私は、2574番だ」


「覚えにくい名前だなぁ。ま、よろしく頼むよ。動物園のテロリストさん」


「てめぇらは、静かにしてろ! ったく、朝から気分が悪ぃぜ」


 私は奇妙な同居人を、ただ、じっと分析していた。

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