第16話 沈黙の論理

 ――取調室。


 安っぽいパイプ椅子と、薄汚れたスチール机。


 目の前では二人の刑事が唾を飛ばしている。


「いい加減に吐いたらどうだ! お前がやったことは分かってるんだぞ!」


 ベテランらしき刑事が、机に拳を落とした。


 霊長類が群れの中でマウントを取る際に見せる威嚇行為か、あるいは原始的な求愛行動か。


 私は、手錠をかけられた両手を眺めながら、あくびを噛み殺した。


「……吐けと言われてもな。私は胃の内容物をテーブルに戻す趣味はないし、そもそも貴様らの質問には論理性がない」 


「どういう意味だ」


「そもそも、私は何の罪を犯した?」


 若手の刑事が鼻を鳴らした。


「ふざけるな。動物園の電子ロックを解除し、猛獣を放った。目撃者もいるんだぞ!」


「あの子供か。確かに私は、あの扉の前に立った。だが、それだけだ。扉の前に立つことが、この星の法律では罪になるのか?」


「屁理屈を言うな! お前が立った直後に、ロックが解除されたんだ」


 ベテラン刑事が、ノートパソコンの画面を私に向けた。


 監視カメラの映像だ。


 私がバックヤードの扉に手をかざし、中に入っていく様子が映っている。


「見ろ! 完全に映ってるじゃないか!」


 私は画面を覗き込んだ。


「私は扉に手をかざしている。で、カードキーを通した痕跡はあるのか? そもそも、私は所持していない」


 刑事たちが言葉に詰まる。


 そう。映像の中の私は、ただ、手をかざしただけ。物理的な解錠ツールは一切使っていない。


「どこに隠した?」


「貴様らが、所持品検査もしたはずだ。私のポケットから、合鍵やピッキングツール、あるいはハッキング用の電子機器でも見つかったか?」


「それでも、事実、鍵は開いた」


 私は畳み掛ける。


「念力か? 超能力か? それとも魔法か? 警察組織はいつから、オカルトを調書に採用するようになったんだ」


 ベテラン刑事が唇を噛んだ。


 こいつらの常識では、説明がつかない。


 指先から電気信号を流し込み、回路をショートさせる行為は、人間には不可能だ。


「では、電子キーは偶然、壊れていたとしよう。だが、その後にお前が通ったバックヤードの全ての檻が開いたんだ。そっちは言い逃れはできんだろ!」


「相関関係と因果関係を混同するな」


「……何だと?」


「私が通った後に檻が開いた。それは事実だ。だが、私が開けたという証明にはならない。檻から出たいと願っていた動物が、自らの意思で檻を破ったのかもしれん」


「そんなはずないだろう!」


「では、私が開けたと証明するのが、貴殿らの仕事だ。悪魔の証明を被疑者に押し付けるな。推定無罪が、この星のルールのはずだ」


 刑事が再び机を殴った。


「……いいだろう。動物園の一件は、鑑識の結果を待つとしよう。だがな、こっちは言い逃れできんぞ」


 刑事が、別の資料を放り投げた。二枚の写真だ。


 一枚は、六道クリニックの防犯カメラ映像。血まみれで逃走する、顔を改造する前の私が映っている。


 もう一枚は、免許証のコピー。名前は『星野聖』。


「正直、我々は混乱している」


 ベテラン刑事が、気味の悪いものを見る目で私を睨んだ。


「六道クリニックの事件直後、近くのラブホテルで強盗事件があった。被害者は『星野聖』。犯人は、クリニックから逃走した男と背格好が一致している」


「それがどうした」


「ここからが本題だ。我々はお前を、その強盗犯だと思って捕まえた。体格も、服装も、逃走ルートも一致していたからな。だが、顔を見て驚いた」


 刑事が、私の顔を指差した。


「お前、なんで被害者の顔をしてるんだ? 被害届を出した星野聖の免許証データと、お前の顔が完全に一致した。意味が分からん」


 なるほど。

 こいつらの貧弱な想像力では、処理しきれないバグが発生しているらしい。


「それは、貴様らの脳の処理能力が追いついていないだけだ」


「だったら、説明してくれ。このあり得ない状況を。お前は、いったい誰なんだ」


「整理しよう。貴様らの目の前にある事実は二つだ。私はクリニックから逃げた男の体格を持ち、かつ、被害者である星野聖の顔を持っている。そうだな?」


「あぁ。だから訳が分からんと言ってるんだ」


「論理的に考えれば、答えはシンプルだ」


 私は指を一本立てた。


「ケースA。私が星野聖本人である場合。私はクリニックを襲撃した後、ホテルへ行き、自分で自分の財布を盗んで通報したことになる。狂人の自作自演だ。あり得ない」


「そんなことは分かってる」


「では、ケースB。私が星野聖ではない『一国司』という別人である場合。私は星野の顔を模倣し、彼の所有物を所持していたことになる。そもそも、顔の造形など、あくまでハードウェアの製造番号に過ぎない」


「ハードウェア?」


「パソコンの筐体ケースが同じでも、中に入っているOS《人格》が書き換わっていれば、それは別のマシンとして機能する。今の私は『一国司』というOSで動いている。顔が星野聖だろうと知ったことではない」


「……責任能力の欠如を装っているのか?」


「装ってはいない。事実を述べている。この肉体が過去に何をしていようと、現在の私には関係のないことだ」


 突然、取調室のドアがノックされた。


 若い制服警官が、蒼褪あおざめた顔で入ってくる。


「警部! 動物園の件で、鑑識から報告が!」


 ベテラン刑事が、救いを求めるように振り返った。

 わけのわからないパラドックスよりも、目の前の「動物園事件」で固めたいのだ。


「何が出た? 指紋か、ハッキングの痕跡か?」


「いえ、それが……」


 歯切れが悪い。

 警官が震える声で報告書を読み上げる。


「ロックの電子基板が完全に焼き切れています。外部からのハッキング痕跡なし。物理的な破壊痕もなし。内部からの過電流による自然故障の可能性が高いと」


 刑事二人が、信じられないものを見る目で私を見た。


「……自然故障?」


「だから、最初からそう言っているだろう。私に罪があるとすれば、壊れて開いていた扉を通ってしまったにすぎない点だ。これを何罪で裁く?」


 沈黙。

 圧倒的な徒労感が、取調室を支配した。


 こいつらは、ようやく理解したのだ。動物園の件は証拠不十分。星野聖の件は、被害者と加害者が混在する論理的迷宮。


 私をここに留めておける正当な理由が、音を立てて崩れていく。


「……今日はもういい。留置所に戻せ」


 ベテラン刑事が、力なく手を振った。

 完全勝利だ。


 私はパイプ椅子から立ち上がり、恭しく一礼してやった。


 警官に腕を引かれ、私は取調室を後にした。


 背後で、刑事がうめく声が聞こえた。


          ◇


 鉄の扉が閉まる。

 再び、私は番号で呼ばれる肉に戻った。


 だが、問題ない。


 この閉鎖空間には、私と同じように社会からはじき出された『有益なサンプル』が多数収容されている。


 隣の房からは、暴力団員らしき男の怒号。向かいの房からは、詐欺師の軽薄な独り言。


 ここは犯罪の博物館であり、裏社会の図書館だ。


 ここを出る頃には、私はこの国の『裏のルール』を完全にマスターしているだろう。


 私は硬い床に横になり、目を閉じた。


 ――さて、学習の時間だ。

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