2話 鍵を開ける人

※しんどい気持ちや、「いなくなりたい」と思ってしまう心情が登場するお話です。

そういった描写が苦手な方はご注意ください。





――





その週は、最悪だった。


ミスじゃないことで責められ、部活では「先輩だから」と押しつけられ、家に帰れば弟の受験モードで空気が張りつめている。



「お姉ちゃんはいいよね、慣れてるでしょ」



何度目かのその台詞に、心のどこかでぷつんと音がした。


夜、気づけばまた遅い時間。


塾の自習室を出て、駅へ向かう細い路地を抜ける。


視線が勝手に、あの古い雑居ビルへ向かった。


時計は23時52分。



(……行かない方がいい。けど)



足は、もう階段を上っていた。


屋上へ続く最後の踊り場。


金属の扉は赤いランプを灯している。



「あ、閉まって――」



と言いかけた瞬間、カチャ、と内側から鍵の音がした。


扉が数センチ開き、その隙間から、神谷が顔を出す。



「本当に来たな」


「本当にいたんですか」



互いの感想が、そのまま口に出る。



「入る?」


「え」


「風、気持ちいい。柵の近く以外なら許可」



冗談みたいな言い方のくせに、断りづらい。


私は軽く頷いて、扉の向こうに足を踏み入れた。


夜風が、一斉に頬を撫でる。


街の明かりが遠くに点々と並び、道路の黒は、屋上からだと絵の具みたいに平らだ。



「きれい」



思わず漏れた声に、神谷が「だろ」と小さく笑う。


彼は作業ジャンパーの前を開け、鍵束を腰のフックに戻した。



「神谷さんこそ、大丈夫なんですか。こんな時間まで」


「大丈夫じゃないけど、やるしかない」



あっさり言い切る。



「看板の消灯も、貯水タンクの圧も、誰かがチェックしないと朝困る。親父に頼むと『ついでに』って仕事増える」


「それ褒めてないですよね」


「褒めてない」



二人で、柵から十分離れたコンクリートの縁に腰を下ろす。


彼は夜空を見上げ、少し間を置いてから言った。



「前に一回、俺も潰れかけた」



横顔が、わずかに硬くなる。



「大家の家って、頼られると断りづらい。学校でも家でも“神谷なら”って積み上がって、寝れなくて、食えなくて」


「どうでもよくなって、ここ来て、柵の向こうを見てた」



息がひとつ、胸の奥で引っかかった。



「そのとき、親父に鍵を渡された。『屋上は逃げる場所にするな。深呼吸して戻る場所にしろ』って」



ジャラ、と彼は鍵束を鳴らす。



「それで決めた。ここの鍵の音は、“今日も生き延びた”の合図にするって」



軽く言っているのに、その声はどこか祈りに似ていた。



「……さっき、顔が死んでたから。風に当たれ」


「そんなにやばかったですか、私」


「まあまあ」



秒で返されて、思わず吹き出す。


笑うと、胸の重さがほんの少しだけ緩む。



「落ちる気になった?」


「なってない」


「なら、セーフ」


「何が」


「今日の“生存ログ”」



そう言って、神谷は管理用のポーチをごそごそ探り、丸い点検済シールを一枚取り出した。


可笑しなマスコットの絵。安っぽい印刷。



「なにそれ」


「管理室の余り。今日のログ」



私の手の甲に、ぺたり。



「……ださい」


「ださいけど、剥がすな。今日はちゃんと生き延びた、の印だから」



喉の奥が熱くなる。


ひと呼吸置いて、気づけば口が勝手に動いていた。



「神谷さん」


「ん」


「もし、ほんとにもう無理になったら、また来ていい?」



一瞬、彼は目を見開き、すぐに頷く。



「無理になる前に来い。できれば」


「ハードル高い」


「練習しろ」



くだらないやりとりをして、二人で屋上を出る。


扉が閉まり、鍵が回る音が、午前0時を少し過ぎた空気に落ちた。


その音が、「生存ログにハンコ押した」みたいに思えた。



――








今日も読んでくださって、ありがとうございます。

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