午前0時、屋上鍵の音がしたら

森谷るい

1話 ここから落ちたら楽なのに、って

※しんどい気持ちや、「いなくなりたい」と思ってしまう心情が登場するお話です。

そういった描写が苦手な方はご注意ください。




――





午前0時を少し過ぎた商店街は、昼の喧噪を忘れたみたいに静かだった。


塾帰りにコンビニで家の牛乳を買って、狭い路地を抜ける。


ふと見上げると、駅前の古い雑居ビル。


――看板の明かりが半分消えた五階建て。


――の屋上扉の小窓が、わずかに黒い。



(……開いてる?)



このビルは、商店街じゃ古株で、夜はオーナー家族が施錠点検をする。


それでも、ときどき業者が遅れて、屋上のアンテナや貯水タンクの点検がずれこむことがあるらしい。


階段の踊り場に流れる夜風。


屋上の銀色の取っ手に触れると、ほんの数センチ、扉が押し戻った。


街の光が、暗い空に細く伸びる。


柵の向こうには、眠らない通り。


タクシーのテールランプが、赤い線を残して消えた。



(ここから落ちたら、明日のLINEも、提出も、何も見なくていいのかな)



本気で飛ぶつもりじゃない。


ただ、そう考えるくらいには、今夜は疲れている。



「やめとけ」



背中で低い声が割れた。


びくっと振り向く。


黒い作業ジャンパーに鍵束、片手には小さな懐中電灯。


見覚えのある顔――商店街でときどき見かける、あのビルのオーナーの息子だ。


――神谷 蓮かみやれん



「そんな顔で、ここ出てくるな」


「……どんな顔」


「落ちてもいい、みたいな顔」



淡々と言われて、喉が詰まる。



「落ちないし」


「ならいい」



神谷はそれ以上、責めなかった。


カチャ、と鍵が鳴って、扉が完全に開く。


閉める前に、私が外に出てしまったらしい。



「戻る。終電、間に合わなくなる」


「なんで神谷さんがここに?」


「施錠点検の当番。家の手伝い」



そう言って、彼は懐中電灯を下ろす。



「……勝手に開いてたから。少しだけ、風に当たろうと思っただけ」



言い訳みたいに付け足すと、神谷はじっと私を見てから、小さく息を吐いた。



「それなら、扉のそばまでにしとけ。柵には近づくな」


「子ども扱いしないで」


「してる。危なっかしいから」



一方的に言って、鍵を回す。


赤いランプが点いて、重たい音が屋上に落ちた。



「降りるぞ」



渋々、階段を降り始める。


背中のほうで、鍵束がジャラ、と鳴る。


踊り場に差した街の光の中で、神谷がぽつりと言った。



「……さっきの、『落ちたら楽』って考えたの、初めてじゃないだろ」



心臓が一段、踏み外したみたいに跳ねる。



「考えてない」


「今、顔に書いてた」


「失礼」


「仕事柄。そういう顔、見慣れてる」



仕事柄――? と眉をひそめる私に、神谷は鍵束を指で回しながら続けた。



「うちの家、このビル以外にも何軒か物件持っててさ。夜、点検回ることがある。

誰かの“しんどい顔”って、案外どこにでもある」



それは独り言みたいで、どこか祈りに似ていた。



「本気で無理になる夜があったら」



踊り場で立ち止まり、神谷は私の方を見た。



「午前0時に、この扉の前まで来い」


「え?」


「このビル、0時前後に屋上と通用口を締めるルーティンがある。俺がいる」


「……毎晩?」


「毎晩じゃない。でも、来るなら気づく」



懐中電灯の丸い光が、足元で小さく揺れる。



「扉が開く音がしたら、“今日も一人、生きてたな”ってわかる」


「余計なお世話」



口ではそう言ったのに、不思議と嫌じゃなかった。


階段を降りきって振り返ると、神谷はもう一度だけ鍵を確かめ、軽く顎をしゃくる。



「気をつけて帰れ」



午前0時。屋上の鍵の音。


今夜は、その音を少しだけ、胸の中に残したまま眠ることになった。



――








ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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