第31話 迫りくる世界の汚れ

「これが……《シミ抜き -スポット・クリーン-》……!」


 俺は自分の手のひらを見つめ、ゴクリと喉を鳴らした。

 全身を駆け巡った灼熱の奔流はすっかり収まり、代わりに、今までとは比較にならないほどの澄み切った力が、体の隅々まで満ち渡っているのを感じる。

 脳内に流れ込んできた、新しい『洗い方』の知識。

 それは、服についた小さな醤油のシミを、歯ブラシでトントンと叩いて、汚れの分子構造そのものを分解するように、呪いの『核』だけをピンポイントで破壊する技術。

 より精密で、より専門的で、より強力な、『汚れ』への一点突破。


「すごい……すごい『洗い方』を、手に入れました……!」


 俺が興奮気味にそう言うと、リリアもセナさんも、クロエさんも、我がことのように喜んでくれた。


「やったじゃない、アラタ!」

「素晴らしいですわ、アラタ様!」

「……さらに、強く」


 工房は、再び温かい祝福の空気に包まれる。

 リリアが淹れた泥水茶のことや、セナさんが箒と格闘していたドタバタが、まるで遠い昔のことのようだ。

 だが、その和やかな雰囲気に、静かな一石を投じたのは、やはりエリアーナさんだった。


「おめでとうございます、アラタ様」


 彼女は、全てを理解したように、満足げに微笑んだ。

 だが、その翡翠の瞳に浮かんでいるのは、深い、深い憂いの色。


「ですが、どうかお忘れなきよう……」


 彼女は、工房の窓から外の賑わう街並みを見つめる。

 その言葉に、俺たちは思わず息を呑んだ。


「母なる大樹様を蝕む、本当の『汚れ』は……今この瞬間も、世界のどこかで静かに、そして確実に、広がっているのですから」


 世界の、どこかで。

 その言葉のスケールの大きさに、俺の興奮は急速に冷えていく。


「あの、エリアーナさん……」

 俺が、恐る恐る尋ねる。

「その、『本当の汚れ』っていうのは……一体、何なんですか?」


 エリアーナさんは、ゆっくりと俺たちの方へ向き直った。

 その表情は、一族の未来を憂う巫女のように、厳かで、悲痛な色を帯びていた。


「我らは、それを『大地の淀み』と呼んでおります」

「大地の……淀み?」

 リリアが、訝しげに眉をひそめて問い返す。


「はい」とエリアーナさんは頷いた。

「それは、大地そのものを蝕む、原因不明の病。淀みに侵された土地は生命力を失い、草木は枯れ、そこに住まう動物たちは次第に凶暴化していきます」


(だ、大地の病……? なんだそれ、スケールがでかすぎないか……?)

 俺の頭の中は、クエスチョンマークでいっぱいだ。

 俺が今まで相手にしてきたのは、武具にこびりついた呪いだとか、土地に染みついた怨念だとか、あくまで『アイテム』や『場所』に限定された汚れだった。

 大地そのものが汚れてるって、どういうことだ?


「それだけでは、ございません」

 エリアーナさんの声が、さらに重くなる。

「『大地の淀み』の最も恐ろしい点は、聖なる力を持つ存在をも汚染し、その性質を真逆に反転させてしまうことにあります」

「性質を、反転……?」


「左様です。我らの『母なる大樹』様が、生命を育む聖樹から、生命を奪う呪いの源へと変貌しつつあるように……。この『世界樹の若杖』が、『死喰らいの茨杖』へと成り果ててしまったように……」


 その言葉に、俺たちはハッとした。

 つまり、あの杖に起きた悲劇は、単独の現象じゃなかった。

 もっと巨大な、世界規模の『汚れ』が引き起こした、ほんの一つの症例に過ぎなかったというのか。


「そんな……」

 セナさんが、青ざめた顔で唇を震わせる。


「我らエルフの調査では、同様の現象は、大陸の各地で、僅かながら報告が上がり始めています。聖なる泉が毒の沼に、守護獣が人を襲う魔獣に……。今はまだ、点在する小さな『シミ』に過ぎません。ですが、いずれそのシミは繋がり、世界全体を覆い尽くす、巨大な『汚れ』となるでしょう」


 エリアーナさんの言葉は、静かだったが、そこには抗いがたい絶望の響きがあった。


(せ、世界全体を覆う汚れ……!?)


 俺は、あまりのことに眩暈がしそうだった。

 無理だ。絶対に無理だ。

 俺は皿井アラタ。二十八歳、元引きこもりニート。得意なことは、カレー皿の洗浄と茶渋落とし。

 そんな俺に、世界の危機とか言われても、対応できるわけがない!


「何か、対策はないの!?」

 俺が内心でパニックを起こしていると、リリアが鋭い声で切り込んだ。さすが、リーダーだ。

「その『淀み』の発生源は、分かっているの!?」


 だが、エリアーナさんは、悲しげに首を横に振った。

「……いえ。発生源も、原因も、今のところは何も。我らにできるのは、淀みの影響で呪われてしまった場所や物を、一つ一つ浄化し、侵食の速度を、ほんの少しでも遅らせることだけ……」


 その言葉に、工房は重い沈黙に包まれた。

 それは、あまりにも途方もない、終わりの見えない戦いだった。

 そんな絶望的な空気の中、エリアーナさんの翡翠の瞳が、ふと、俺をまっすぐに捉えた。


「ですが……」

 彼女の声に、ほんの少しだけ、光が灯る。

「あなた様のその新しい力……《シミ抜き -スポット・クリーン-》は、我らにとって、新たな希望の光となるかもしれません」

「え……? 俺の、この力が?」


「はい。『大地の淀み』は、ただ広範囲を浄化するだけでは、すぐにまた汚染が広がってしまいます。ですが、もし……もし、淀みの中心にある『核』のようなものを、ピンポイントで破壊することができたなら……」


 なるほど。

 ただ洗濯機で丸洗いするんじゃなくて、シミのど真ん中に、特殊な洗剤を垂らして、原因そのものを分解する。

 確かに、俺が新たに手に入れた《シミ抜き -スポット・クリーン-》は、まさしくそのための技術だ。


(でも、だからって、俺に世界が救えるなんて……)


 俺が、その重すぎる期待に尻込みしていると、リリアが俺の背中を、力強くパンッと叩いた。


「い、痛っ!?」

「何、弱気になってるのよ、アラタ」

 リリアは、ニッと不敵に笑って見せた。

「別に、あんた一人で世界を救えなんて、誰も言ってないでしょ。あんたは、いつもの通り、目の前の『汚れ』をピカピカにすることだけ考えてればいいのよ」

「リリアさん……」

「そうですわ、アラタ様」

 セナさんも、優しく微笑む。

「あなた様が浄化に集中できるよう、わたくしたちが、全力でお守りいたしますから」

「……私も、いる」

 クロエさんが、俺の前に立ち、静かに、しかし力強く頷いた。


 仲間たちの、温かくて、頼もしい言葉。

 そうだ。俺は一人じゃない。

 俺は、俺にできることを、ただ、全力でやるだけだ。


「……ありがとうございます、皆さん」

 俺は、まだ少し震える声で、それでも、はっきりと答えた。

「俺は、浄化師じゃありません。ただの、洗い物屋です。だから、世界の危機とかはよく分かりませんが……目の前に、洗うべき『汚れ』があるなら、俺はそれを、完璧に洗い上げるだけです」


 それが、俺の、唯一の矜持。

 俺の言葉に、仲間たちは満足そうに頷いてくれた。


 その時、今まで黙って俺たちのやり取りを見ていたエリアーナさんが、ふと、心配そうな顔で口を開いた。


「ですが、アラタ様。どうか、お気をつけください」

「……え?」


「あなた様のその比類なき力は、多くの者を救う光であると同時に……多くの者の、暗い『欲望』をも、引き寄せることになりますから」


 彼女の言葉は、まるで予言のようだった。

 カインのような、権力と嫉妬に駆られた人間が、この力を黙って見過ごすはずがない。

 俺たちの華やかで騒がしい日常の裏側で、新たな嵐が、すぐそこまで迫っていることを、その時の俺は、まだ知らなかった。

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