第9話 呪われた籠手と、赤髪の剣士の祈り

時が、止まっていた。

俺は神々しい光を放つ聖剣を握りしめ、公園の入り口に立つ三人の少女たちと、ただひたすらに見つめ合っていた。


(え……だ、誰……?)


頭の中は、完全にキャパシティオーバーだ。

燃えるような赤い髪の、活発そうな剣士の少女。

知的な雰囲気を漂わせる、銀髪の魔法使いっぽい少女。

二人を守るように立つ、屈強な体格の盾を持った少女。

三人とも、ファンタジー映画からそのまま飛び出してきたかのような、現実離れした出で立ちだった。


(っていうか、もしかして……見られてた!?)


全身から、ぶわっと汗が噴き出す。

俺が、この世界の終わりのような状況で、水道の蛇口をひねり、ブツブツと独り言を呟きながら、泥まみれの鉄屑を一心不乱に洗っていた、あの姿を……!


(うわあああああああ! 死にたい! 穴があったら入りたい! いやもう、いっそこの汚泥に埋めてくれ!)


家族に勘当された絶望よりも、凍え死ぬ寸前だった恐怖よりも、今、この瞬間の羞恥心の方が、はるかに俺の精神を蝕んでいた。


俺が羞恥で身悶えしていると、三人のうち、先頭に立っていた赤髪の少女が、意を決したように一歩、また一歩と、こちらへ近づいてきた。

その琥珀色の瞳は、俺が手にしている聖剣に釘付けになっている。


「あ、あの……!」


震える声だった。

だが、その声には、藁にもすがるような、切実な響きが込められていた。


「き、貴方が……今、それを……?」


少女は、聖剣と俺の顔、そして俺がさっきまで作業をしていた水道と、足元に転がる汚れた武具の残骸を、信じられないものを見るかのように何度も見比べている。


「……」


俺は何も答えられない。

コミュ障の俺にとって、見ず知らずの、しかもこんな美少女に話しかけられるなんて、ハードルが高すぎる。ただ、コクコクと小さく頷くのが精一杯だった。


その反応を見て、少女の瞳に、確信と、そして一筋の希望の光が宿った。


「あたしはリリア! Aランク冒険者パーティー『クリムゾン・エッジ』のリーダー、リリア・フレイムハート!」


彼女はそう名乗ると、胸に手を当てて、一気にまくし立てた。


「あたしたちは、かつてはAランクパーティーとして、それなりに名前を知られていたんだ。でも……ある高難易度ダンジョンで、特殊な呪いを受けてしまった……」


リリアの表情が、悔しそうに歪む。

彼女は、自分の左腕にはめられた、黒光りする無骨なガントレット――籠手を、忌々しげに見つめた。


「あたしのこのガントレットも、仲間たちの装備も、みんな強力な呪いにかかって、本来の力を全く発揮できなくなった。どんな高名な解呪師にも、教会の神官にも、この呪いは解けなかった……。おかげで、あたしたちは依頼をまともにこなせなくなり、ランク降格寸前……もう、パーティーは壊滅寸前なんだ……!」


なるほど。

事情はよく分からないが、とにかく、この人たちは相当追い詰められているらしい。

元Aランク……すごいのかどうかは分からないが、その響きには、彼女たちが失ってしまったであろう栄光とプライドが滲んでいた。


「だから……お願い!」


リリアの声が、悲痛な叫びに変わる。


「もし、その力が……その、鉄屑を聖なる剣に変えたその力が本物なら……どうか、あたしのこの呪われたガントレットを……!」


そう言うと、彼女は覚悟を決めたように、左腕のガントレットを外して、俺の目の前に差し出した。


その瞬間、俺は息をのんだ。


(な……なんだ、この『汚れ』は……!)


ガントレットからは、目に見えるほどの黒い瘴気が、陽炎のようにゆらゆらと立ち上っていた。ジリジリと空気を焦がすような、不快な音が微かに聞こえる。

それは、物理的な汚れなんかじゃない。

あの銀食器にまとわりついていた『淀み』とも、比べ物にならないほど濃密で、邪悪な、根源的な穢れの塊。


それは、俺がこれまで対峙してきた、どんな汚れよりも、汚かった。


リリアの後ろで、銀髪の少女と黒髪の少女が、固唾をのんで俺の反応を見守っている。

彼女たちの視線が痛い。

期待、不安、疑念、様々な感情が入り混じった視線が、槍のように俺に突き刺さる。


(無理だ、無理に決まってる……)


俺は、ただの皿洗いだ。

スキルが【万物浄化】に進化したとか言われたって、実感なんてまるでない。さっきの聖剣だって、ただ無我夢中で洗ってたら、偶然ああなっただけかもしれないじゃないか。


(それに、こんなすごい人たちと関わったら、絶対面倒なことになる……。俺は、静かに、誰にも迷惑をかけずに生きていきたいだけなんだ……)


断ろう。

俺にはできません、と。人違いです、と。

そう言えばいい。そう言って、この場を立ち去ればいいんだ。


だが――。


俺の目は、リリアが差し出すガントレットから、どうしても離すことができなかった。

あの、ドス黒く渦巻く瘴気。

本来の輝きを完全に覆い隠し、その価値を貶めている、醜悪な『汚れ』。


あれを、この手で、洗い流すことができたなら。

あの穢れの奥に眠っているであろう、本来の輝きを、この目で見ることができたなら。


ゴクリ、と喉が鳴った。


ああ、ダメだ。

ダメだ、ダメだ、ダメだ。


洗いたい。

洗ってみたい。

あの、過去最高クラスの『汚れ』を、俺のこの手で、完璧に洗い清めてみたい……!


俺の中で、社会に対する恐怖心と、コミュ障の自己防衛本能が、たった一つの、異常なまでの探求心に、いとも容易く食い破られていく。


俺が葛藤していると、リリアは俺が断ると思ったのだろう。彼女の顔に、絶望の色が浮かんだ。


だが、彼女は諦めなかった。


「お願いします……!」


リリアは、差し出したガントレットを持ったまま、その場で深々と、腰を九十度に折って頭を下げた。


「これが、あたしたちの最後の希望なんです……! どんな報酬でも払います! だから……どうか、あたしたちを助けてください……!」


雨に濡れた地面に、彼女の赤い髪の先から、ぽつりと雫が落ちる。

それは、雨粒なのか、それとも彼女の涙なのか。


その、あまりにも真剣な祈り。

そして、目の前に突き出された、挑戦的とも言えるほどの、極上の『汚れ』。


俺はもう、抗うことなんてできなかった。


「……分かりました」


か細く、自分でも驚くほど震えた声で、俺は答えていた。

そして、まるで何かに取り憑かれたかのように、その呪われたガントレットへと、そっと手を伸ばしていた。

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