第3話 聖域の儀式と家族という名の地獄

なんだ、これ……。

 手に持った銀のスプーンから伝わってくる、粘つくような不快感。それは物理的な汚れとは明らかに異質だった。ただの硫化銀の黒ずみならば、俺の知識と技術で完璧に落としきれる自信がある。だが、このドス黒い「淀み」は、まるで食器そのものに染みついた怨念のようだ。


(まるで……長い間、誰かの憎しみでも吸い続けてきたみたいじゃないか……)


 そんな非科学的なことがあるはずない。そう頭では分かっているのに、背筋を這う悪寒は消えてくれない。俺が初めて遭遇する、未知の敵。その存在感に、思わずゴクリと喉が鳴った。


「アラタ! まだ終わってないの!?」


 背後から突き刺さる母親の苛立った声に、ビクリと肩が跳ねる。振り返ると、仁王立ちの母が呆れ顔で俺を睨みつけていた。


「常務様がいらっしゃるまで、もう時間がないのよ! いつまでぼさっとしてるの!」


「ご、ごめん……今やるところだから」


「当たり前でしょ! いいこと? あんたがやるべきことは、この食器を完璧に磨き上げることと、お客様の前に絶対に姿を見せないこと。それだけよ。我が家の恥なんだから、それくらいはしっかりやりなさい!」


 我が家の、恥。

 その言葉が、また俺の心を鈍器で殴りつける。分かってる。分かってるよ。俺がここにいるだけで、この家の価値が下がるってことくらい。


「……うん」


 力なく頷く俺を一瞥すると、母は「本当に使えない子ね」と最後の追い打ちをかけて、パタパタとリビングに戻っていった。


 シン、と静まり返るキッチン。俺の聖域。

 だが今は、目の前の未知の敵と、家族からのプレッシャーで、息が詰まりそうだ。


(……でも)


 俺は、ぎゅっと拳を握りしめた。


(これしか、ないんだ)


 これしか、俺がこの家で存在を許される理由はない。俺の価値は、この【洗い物】の完璧さでしか証明できない。


「やってやる……」


 誰に言うでもなく呟き、俺は再びゴム手袋をはめ直した。カチリ、と脳内のスイッチが切り替わる。ここからは、ただの皿井アラタじゃない。汚れと戦う、孤高の求道者だ。


 まずは物理的な汚れからだ。

 俺は大きな鍋に湯を沸かし、塩とアルミホイルを入れた。そこに、黒ずんだ銀食器をそっと浸していく。


(硫化銀の黒ずみは、銀イオンと硫黄が結合したもの。磨いて削り取るのは素人のやることだ。傷がつくリスクがあるし、何より美しくない)


 鍋の中では、イオン化傾向の違いを利用した化学反応が静かに始まっていた。アルミが銀の代わりに硫黄と結びつき、銀食器は本来の輝きを取り戻していく。化学の教科書に載っているような、単純な原理だ。


(だが、最適解はさらにその先にある。塩分濃度、湯の温度、浸ける時間……その全てが、銀の輝きを左右するんだ)


 ブツブツと呟きながら、俺はストップウォッチで秒単位の時間を計測し、温度計で湯温が一度たりともずれないように細心の注意を払う。それはもはや作業ではなく、精密機械を扱う研究者のような没頭ぶりだった。


 数分後。

 鍋から引き上げた銀食器は、まるで生まれたてのような眩い光を放っていた。黒ずみは一片たりとも残っていない。


「よし……次はクリスタルグラスか」


 グラスの白いくもりは、水道水に含まれるミネラル分が固着した水垢だ。俺は酢と水を1:1で混ぜた特製の洗浄液を作り、そこにグラスを浸す。アルカリ性の水垢を、酸性の酢で中和して溶かす。これもまた、化学の基本。


 しばらく浸け置いた後、柔らかなマイクロファイバークロスで、一点の曇りもなく磨き上げていく。光にかざすと、グラスの繊細なカットが虹色の輝きを放った。


「美しい……」


 思わず、恍惚のため息が漏れる。

 物理的な汚れは、全て完璧に除去した。これ以上ないほどの仕上がりだ。


 だが――。


 俺は再び、あの銀のスプーンを手に取った。

 物理的な輝きは完璧だ。鏡のように俺の情けない顔を映している。

 なのに、あの粘つくような「淀み」は、消えていなかった。むしろ、表面の汚れがなくなったことで、より明確にその存在を感じる。


(どうすればいい……? これは何なんだ……?)


 洗剤でも、薬品でも、化学反応でもない。

 俺がこれまで培ってきた全ての知識が、この未知の汚れの前では無力だった。


 時間だけが刻一刻と過ぎていく。リビングからは、仕出し弁当のいい匂いが漂い始めた。もうすぐ、客が来る。


 焦りと絶望が、俺の心を蝕んでいく。

 ダメだ。これじゃ、完璧じゃない。俺の仕事は、完璧じゃなければ意味がないんだ。


 その時だった。

 俺は、なぜか無意識のうちに、目を閉じていた。


 そして、ただひたすらに、目の前のスプーンに意識を集中させる。

 このスプーンが、本来あるべき美しい姿になることだけを、心の底から願った。


(綺麗になれ……綺麗になれ……綺麗になれ……!)


 それは祈りにも似た、純粋な執念だった。

 洗剤でも、スポンジでもない。俺の精神そのものを、この食器に注ぎ込むかのように。


 俺がこの世界で唯一、完璧になれる瞬間。

 家族に罵られ、社会から拒絶され、ゴミのように扱われてきた俺が、唯一、価値を創造できる行為。

 その全てを、この一点に――。


 すると、どうだろう。

 閉じた瞼の裏で、手のひらのスプーンが、ふわりと温かくなったような気がした。そして、ずっとまとわりついていたあの粘つくような不快感が、まるで氷が溶けるように、スッと消えていくのを感じた。


「……え?」


 驚いて目を開けると、俺は息をのんだ。

 手の中のスプーンが、先ほどまでとは比べ物にならないほど、清らかで神々しい光を放っていたのだ。


 それは、ただの物理的な輝きじゃない。

 まるで、聖なる力を宿した聖遺物のような、魂を浄化するような、清浄なオーラ。


(な、なんだ……これ……俺が、やったのか……?)


 何が起きたのか分からない。だが、確かにあの「淀み」は消え去った。

 俺は憑かれたように、残りの銀食器とクリスタルグラスにも、同じように精神を集中させていく。一つ、また一つと、食器たちが聖なる輝きを帯びていく。


 全ての作業を終えた時、俺は立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。

 全身の力が抜け、激しい疲労感に襲われる。まるで、魂の半分でも持っていかれたかのような消耗ぶりだった。


「はぁ……はぁ……」


 だが、俺の目の前には、完璧を超えた、神々しいまでの作品たちが鎮座していた。

 これなら、文句のつけようがないはずだ。


 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。

 客が来たのだ。


 リビングから、父親の作った猫なで声と、知らない男の低い笑い声が聞こえてくる。

 俺は壁に寄りかかりながら、安堵のため息をついた。俺の仕事は、終わった。


 その時、キッチンのドアが静かに開いた。母親だった。

 彼女は、まるで芸術品のように輝く食器たちを一瞥したが、特に驚いた様子もなく、ただ冷たい声で俺に告げた。


「アラタ。時間よ」


 彼女は顎で、廊下の先にある薄暗い物置を指し示す。


「お客様がお帰りになるまで、そこに隠れてなさい。息も殺してね。いいわね?」


 ああ、そうだった。

 完璧な仕事を終えた俺を待っているのは、賞賛でも感謝でもない。

 ただ、この薄暗く、カビ臭い物置だけが、俺のいるべき場所なのだった。

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