第42話 霧深き灰色の盤面

 崇高なる神の“御使い”──ヴィタリーの言葉を聞き、ベアトリスがいち早く両膝をついて頭を垂れた。そのすぐ後にオクタヴィアンが続き、ネリーも混乱しつつもその場に跪く。


 御使いと呼ばれたエリシュカは、突飛とも言える推察を肯定するかのように、礼を尽くす下々を愉快そうに見下ろした。それは貞淑な令嬢の居ずまいではなく、神の代弁者に相応しい自信と驕りに満ち満ちている。


「……ほう? 私の正体を即座に見抜くとは。なるほど……貴様、狩人だな?」


「はい。三百年前、“御使い”が三賢人に授けて下さった知恵にお縋りし、末席に身を置いております」


 努めて冷静に話そうとするヴィタリーだったが、その言葉の端々には自然と熱が籠もる。


 しかし、それは無理からぬことだった。彗星のごとく人類史に現れ、凶王ザハリアーシュを討伐せしめた三賢人だが、そこには“御使い”の助力があったと言われている。


 御使いから三賢人へと授けられた知識と技術は更に後進へと伝えられ、それが吸血鬼狩りの前身となった。その歴史の再来を今、ヴィタリーは目の当たりにしているのだ。


「末席? は、貴様のような末席がいてたまるかよ」


「畏れ多いことでございます」


 豪放磊落を地で行くような男が謙る様が奇妙に映るのか、ネリーは困惑を露わに眉を寄せる。


 それとは対照的に目を輝かせているのはベアトリスだ。神の“御使い”の出現など、敬虔な彼女にとっては奇跡を目の当たりにしているに等しい。


「神の“御使い”が“使徒”を選ばれるなんて、凶王ザハリアーシュ討伐以来、三百年ぶりのこと……! 再び“御使い”を遣わして下さった神のお慈悲に感謝申し上げます……!」


 三賢人は“御使い”の知識を人類に伝えた功績から“使徒”とも呼ばれる。“使徒”に選ばれる条件などは未だに不明ではあるものの、神に選ばれた、それ自体が名誉なことに変わりはない。


 “御使い”は浮かれる修道女に対し、不愉快そうに片眉を上げた。


「…………ああ。今際の際に人間を呪ったっていう馬鹿野郎のことか」


 その瞬間、ヴィタリーとベアトリスが氷像のように身を固くした。


「ば、馬鹿野郎……?」


 この世を創生したとされる神が悪と戦う尖兵として生み出したのが“御使い”と呼ばれる上位存在で、それらは全て品行方正と考えられていた。だが、目の前に顕現した神のしもべは明らかにその理想像とは懸け離れている。


「奴は神の被造物である人間という存在を穢したばかりか、創造主たる神をも冒涜した。もはやその名を口にすることすら汚らわしい」


 しかしながら、どこか品性に欠ける言葉とは裏腹に、“御使い”の神に対する忠誠心は天空そらに届かんばかりに高い。


 まさに、ただ盲目的に神に従う──そうなるべくして神が創造したのだという言説通りだった。


「だが、神の御業が連綿と語り継がれていた事実を知って、私は非常に気分がいい。今ならあの阿婆擦れと有象無象の退治に協力してやってもいいぜ」


「あ、あば……」


「な、何てこと……」


 エリシュカの口から呟かれた下品な言葉にベアトリスとネリーは卒倒しそうになる。


 多少傲慢ではあるが気取ったところのない上位の存在に、ヴィタリーなどは寧ろ多少の気安さを感じていた。


 だが、傲慢であるが故に吐き捨てられたのだろう、聞き捨てならない言葉にヴィタリーは思わず顔を上げる。


「……失礼ながら。有象無象とは、もしやこの村の農民たちのことでしょうか」


「そうだ。お前の話は聞いていた。リュミドラなる毒婦が雑兵どもを率いてこの城に攻め入るつもりだとな。それらごと皆殺しにしても構わねェよなァ?」


 エリシュカの顔で悍ましく笑う“御使い”は、逆手に短剣を構えながら言う。


 その答えに、ヴィタリーは“御使い”に対する認識を改めざるを得なくなった。


 畢竟、神の尖兵たる彼らは神の命に従い吸血鬼と戦っているだけで、絶対的な人間の味方ではないのだ。もしも今この瞬間、神が人を滅ぼせと命ずれば彼らは何のためらいもなく人類を滅ぼし尽くすだろう。


 どう答えるかと思案するヴィタリーをよそに、オクタヴィアンが床に額ずき、慈悲を乞う。


 哀れな老人は恐怖のあまり、肩を大きく震わせて荒い呼吸を繰り返している。


「どうか、それだけは……! 老骨の差し出口などご不快でございましょうが、どうか、農民たちの命だけはご寛恕頂けませんでしょうか……!」


「お、おい……怪我に障るぞ、オクタヴィアンさんよ……」


 ヴィタリーはオクタヴィアンの左腕の骨折を案じて声をあけるが、オクタヴィアンは梃子でも動こうとしない。


 ヴィタリーが見た所、この老人は慈悲深いだけの扱いやすい人物ではない。それでもこうして頭を下げるのは二代に渡って仕えた主の愛した土地を、人を、守りたい一心に他ならない。


 “御使い”は老人の訴えに鼻白んだように唇を曲げる。


「何故止める? あの者たちは愚かにも吸血鬼の誣告を信じ、高貴な身分であるはずの“使徒”に弓引いたんだぜ。これは人の世の規律では万死に値する罪だろうが?」


「し、しかし……村人は扇動されただけで──」


「それでも、貴様らの王は見せしめのために残酷な刑に処すんだろうが?」


 オクタヴィアンは図星を突かれて微かに頬を赤くする。


 その様子を見た“御使い”は、呆れつつも老爺の目前に座り込んで白髪頭を軽く叩いた。


「ジイさんよォ……有象無象のために、下げる必要のねェ頭を下げなくてもいいじゃねぇか」


 な? と“御使い”は小さく首を傾げる。


「どうせ遅かれ早かれ死ぬ運命なら、あの女の支配下に入る前に殺しておけ。陽が出ている内はあの女も悪鬼の力を十二分には発揮出来ねェんだからよ」


 無情な宣告に、オクタヴィアンは額ずいたままぴくりとも動かなくなった。


 ヴィタリーもまた唇を噛む。御使いの言葉は合理的で、正論だ。


 このまま夜が訪れればリュミドラは洗脳の魔眼を使って村人たちを自由に操ることが出来る。そうなれば村人たちを傷付けないようにリュミドラを退治することは不可能である。


 それどころか多勢に無勢で襲い掛かって来た場合、戦闘に慣れたヴィタリーですら命が危うい。だが──

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