第38話 六十人分の命の価値

 ヴィタリーとエリシュカの面会は、互いに床払いが済んだばかりというのも相まって、ごく短時間のみという制約の中で行われることとなった。


 そんな中、客間女中パーラーメイドがエリシュカとヴィタリーのために茶を運び込む。銀盆に載せた白磁器の茶器をそっと茶卓ティーテーブルに置いた。


 ふわりと漂うのは珈琲コーヒーにも似た香ばしい香りだ。しかし、エリシュカの知るそれに比べると、焦糖カラメルのような甘さがあった。


「冷めない内にお召し上がりくださいませ」


 客間女中パーラーメイドはそう言って静かに客間を後にする。


 エリシュカが一口含むと、ほろ苦さと薬草のような風味が口の中に広がった。だが、これは珈琲コーヒーではなく、菊苦菜チコリの根を焙煎した茶だとエリシュカは気付く。


 目覚めたばかりのエリシュカの体調に配慮し、胃腸に優しい飲み物を用意してくれたのだろう。


 滋味深くまろやかな香ばしさが、襤褸布のように擦り切れていたエリシュカの胸を打った。


「──あの女が何者かという質問だが」


 エリシュカが受け皿ソーサーに茶器を戻すのを待ってから、ヴィタリーが重い口を開く。


 ヴィタリーは先程から一向に飲み物に手を付けようとしない。喉が渇いていないのか、礼儀作法が身に付いていないために躊躇しているのか──どちらにせよ、エリシュカには彼に何かを強要するつもりはない。


「少なくとも二百年以上前から存在が確認されている古い吸血鬼だ。協会ギルドでの識別名は【好色の魔女】──真名はリュミドラ。これは先日判明したばかりだ」


「こ……好色の、魔女……?」


 いくら相手が吸血鬼といえども、その名付けは如何なものかとエリシュカは眉を寄せる。


 吸血鬼狩りに対するエリシュカの心象が悪くなったことをヴィタリーは察知し、右手を軽く上げた。


「ま、待ってくれ。何も吸血鬼憎しで命名したわけじゃあないぞ。この女──リュミドラは定期的に見目の良い男ばかりを好んで拉致してきたっていう前科があるんだ」


 ヴィタリーは拉致の周期については十数年から数十年だと断定した。だが、その答えにエリシュカは首を傾げる。


「それは……男性の意志による失踪とは思えないような何かがあったということよね?」


 ヴィタリーは逡巡しつつもそうだと頷く。


「楽しい話じゃないことは分かってるだろうに、そこを突っ込んで聞いてくるとは思わなかったぞ。流石に辺境伯家のお嬢様は肝が据わってる」


 にやりと口角を上げたヴィタリーに、エリシュカは怒りで冷え切った視線を送った。


「兄を吸血鬼にされ、攫われたのよ。私には全てを知った上で、あの女を断罪する権利があるわ」


 令嬢らしからぬ怨詛だと、エリシュカ自身も分かっている。だが、自分でも憎悪が湧き出るのを止められないのだ。


 たった一人の肉親を奪われた。それだけに留まらず、ここまで紡いできた家門の歴史も、身分も財も──エリシュカは全て失ったのだ。


 あの女は自らの行いを決して反省などするまい。ならば──エリシュカが命をもって償わせて何が悪い。


「……断罪する、ね。お嬢様には当主様を偲びながら穏やかに生きる道もあるはずだ。それを捨ててでも修羅の道を行く覚悟があるのか?」


 ヴィタリーはエリシュカの決意を嘲笑しなかった。女だからと侮ったり、最初から出来るわけがないと決め付けたりしない。


 エリシュカは貴族社会ではあり得ない非常識に小さな感動を覚えつつ、膝の上で固く拳を握る。


「望むところだわ。……だって、私が生き残った理由なんて、それ以外考えられないのだもの」


 ヴィタリーは困惑したように鬢の辺りを掻くが、やがて溜め息とともに少し冷めた菊苦菜チコリの茶を一気に飲み干す。かちゃんと音を立てて茶器を受け皿ソーサーに戻すと、腹を括ったようにエリシュカを見据えた。


「……吸血鬼の関与が疑われたのは、失踪した男の家族が全員死亡していたからだ」


「え……?」


「彼らは年齢に関係なく武器を取り、絶命するまで互いに殺し合っていた。寝たきりだったはずの老人、寝返りすら打てない赤子までもがんだ。……吸血鬼の持つ【魔眼】の洗脳によってな」


 エリシュカだけでなく、傍に控えていたネリーまでもが顔をさっと青く染める。


「何故……何のためにそんな事を……」


「さぁな。家族だって男を連れて行かれる訳にはいかんだろうし、リュミドラの所業を止めようとして奴の逆鱗に触れたのかもしれない。それとも目を付けた男の拠り所を完全に無くすためにやったか──どちらにしろ鬼畜の所業だ」


 ヴィタリーは鼻白んだように眉間に皺を寄せ、あらぬ方向へと向く。ここが貴族の住居でなければ本当に唾棄すらしていたかもしれない。


 しかし、エリシュカは説明を聞いて、少し混乱したように眉間を軽く押さえた。


「でも……それじゃあ、今各地で女性が拉致されている事件はリュミドラとは無関係ということ? 彼女の仕業なら、攫われるのは全員男性のはずだもの。それなのに、協会ギルドはどうやってリュミドラの狙いがカタルジュ──兄様だと突き止めたの?」


 ヴィタリーは再びエリシュカに向き直る。その動きで左肩に痛みが走ったのか、わずかに眉を寄せた。


「……む。残念ながらこの二つの事件は無関係じゃないんだ、お嬢様。リュミドラは古い時代の吸血鬼だって言っただろう?」


「え、ええ……それはさっき聞いたわ」


「古い時代の吸血鬼は、人間を喰う。喰った人間の容姿を模倣するんだ。……これも知っていたか?」


 エリシュカは頷こうとしたが、ヴィタリーの言わんとするところを察して、焦げ茶の瞳を不安げに揺らす。


 その時、厚い雲に陽が遮られて客間に影が差し、西風が木々の間を慰撫するように駆け抜けていく。何の変哲もない葉擦れの音だというのに、どこか陰惨な気配を漂わせていて不気味だった。


「リュミドラはアルフレート・カタルジュに懸想し、彼に相応しい美貌を得るために各地の女を攫い、喰った」


 ヴィタリーは目をかっと見開き、口調に悔しさを滲ませる。


「──少なくとも六十人だ。六十人もの女が連れ去られ──おそらく殺されている。好色の魔女の関与が不確実なものを含めると、実際の被害者の数は更に増えるだろう」


「そんなにも……」


 その数はエリシュカの想像よりもずっと多い。


 エリシュカは新聞を読んでいたが、オフェリアの葬儀後の忙しさにかまけて詳細までは把握しきれていなかった。


「そもそも、発端は同時多発的に女性が失踪したという速報だった。その時点では吸血鬼による拉致よりも非合法の組織による人身売買を疑う声が強く、俺たちの介入が遅れた」


 そのせいで爆発的に被害者が増えてしまった、とヴィタリーは自身や協会ギルドの見通しの甘さを責めるように呟いた。


「拉致を実行したのはリュミドラの配下──攫われた男たちだ。彼らは吸血鬼にされて、リュミドラの命じるままに動く化け物になっちまったんだ」


 エリシュカは嫌悪を隠さず口元を抑える。


 リュミドラにとっては女も男も等しく自分を輝かせるためのモノでしかないのだろう。


 ヴィタリーはリュミドラがアルフレートに懸想したと言ったが、そこにオフェリアを亡くしたばかりのアルフレートの気持ちを汲むという配慮があったとは思えない。


 実際、あの夜のヴィスコル城では確かに発砲音が響いていたのだ。恐らく、アルフレートはリュミドラと戦ったがあえなく敗れ──屈辱的な臣従を強いられたに違いない。

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