第32話 女吸血鬼リュミドラ
「……愛しいあなたに
アルフレートに行った仕打ちを悔いながらも、女の顔は暗澹たる愉悦に歪む。
「でも、こうしないとあなたはずっと意地を張り続けてしまうでしょう? 素直になれないあなたのためにしたことだもの。許してくれるわよね?」
アルフレートは小さく頷くが、その後は声も正体なく佇むばかりだった。抵抗の意思を折るために、自我そのものを削ぎ落とされたのだろう。
「さぁ……この手を取ってくださる?」
女は傲然とアルフレートに左手を差し伸べた。
アルフレートは壊れ物を扱うように、そっと女の細い手に触れる。しかし、その瞬間、彼は全ての動きを止めた。
「……アルフレート様?」
女の呼び掛けにもアルフレートは応えない。彼は女の左手──薬指に釘付けとなっていた。
女の細い指にはオフェリアに贈ったものと同じ造形の指輪が嵌っている。それは
まるで、オフェリアの無念がアルフレートを復讐へと駆り立てているかのように──
アルフレートは、頭を抱えて呻く。まるで、沸騰した血潮が脳を焼灼しているようだった。
だが、その荒々しい奔流こそが、アルフレートを正気へと戻したのである。
アルフレートは、女の手を思い切り振り払う。
女は今度こそ、心の底から驚いたように目を見開いた。
「私の【魔眼】を……洗脳を破ったというの……?!」
アルフレートは目から血を流しながら、洗脳、と女の言葉を復唱する。視界が赤く霞んでいるのを悟られないよう、声を頼りに女を睨め付けた。
「な、ぜ……貴様がその指輪を持っている?!」
「指輪? ああ、これのこと?」
女は払われた手を右手で擦りながらも、金剛石の輝きに魅入られたように目を細めた。
「これはあなたが伴侶のために作らせたものなのよね? 分不相応にも、あの女が身に着けていたから取り返しただけよ。だって、あなたの伴侶は私なのだもの」
「貴様が……オフェリアを殺したのか……!」
「いやだわ、私はあの女に髪の毛一筋だって触れていないわよ。私の美しさに慄いて、あの女が勝手に窓から身を投げたのじゃなくて?」
その言葉でオフェリアが自分と同じようにこの女に洗脳され、窓から身を投げるに至ったのだと、アルフレートはようやく気付いた。
──やはり、オフェリアは不貞などしていなかった。この女さえ討ち果たし指輪を取り戻せば、オフェリアの醜聞を晴らすことは出来る!
だが、ここまで辿り着くためとはいえ、余りにも遠回りをしてしまった。せめて、吸血の痕跡さえ残っていれば彼女の名誉が汚されることなどなかったのに。
アルフレートが口惜しさに思わず眉を寄せると、女はその内心を見抜いたのか、得意気に鼻を鳴らした。
「ふふ……頼まれたってあの女の血の一滴、肉の一片足りとも喰らってやるものですか。私の中であの女があなたに愛されるなんて、絶対に許せないもの」
女は甘えるようにアルフレートの懐に潜り込み、その腕に抱き着こうと試みる。
だが、既に正気に戻ったアルフレートは女の身勝手を決して許しはしなかった。すっと後ろに身を引いて、蛇のように絡みつこうとしていた女の白い
女は目を見開き、空を切った自分の掌を見つめる。男が自分を拒否することなど考えたことすらないのだろう。その瞳は母親に裏切られた子供のように大きく、頼りなげに見開かれていた。
アルフレートは女からは決して目は逸らさず、素早く身を屈める。先ほど落とした銃を手探りで拾い上げると、再び女に銃口を向け、今度こそ発砲した。
轟音とともに射出された銃弾が、真っ直ぐに女の左胸を撃ち抜く。
「私に触れるな……! 私の伴侶はお前ではない! ただ一人──オフェリアだけだ!」
女は、倒れない。彼女は天を仰ぎながら溜め息を吐く。
ゆっくりと女がアルフレートへと顔を向けた。女は今度こそ怒りの表情を浮かべており、女の血がこびり着いた白銀の髪が一筋、唇に張り付いている。
「あの女は死んだのに、まだ私を拒むの。……ああ、分かったわ。エリシュカとかいう、地味な女がいるせいなのね?」
「何、だと……!」
アルフレートは吸血鬼の暴力的なまでの不死性に戦慄する。女は胸を撃ち抜かれたにも関わらず即死しないどころか、既に銃創の出血すら止まっているように見えた。
「エリシュカがあなたに依存してこの城に居座るせいで、私の手を取ることを躊躇してしまうのね。やはりあれは殺すしかないみたい」
「やめろ!」
アルフレートは再び発砲し、女の首を正確に射貫く。着弾の衝撃で女が身に着けていたヴェールが、弾けるように後ろに飛んだ。
この至近距離で銃撃を受けたからには、女の首は完全に破壊されてもおかしくはない。
だが、そうはならなかった。女は、倒れず立ち尽くしたまま──健在である。
銀を混ぜ込んだ武器でなければ、吸血鬼を討伐することはこれ程までに難しい。
だからと言って、エリシュカに銀の短剣を預けたことは後悔していない。ただ、自らの準備不足に臍を噛むばかりである。
「私、アルフレート様が私以外の女に優しくするなんて許せそうにないの。あなたの隣はこの私──リュミドラこそが相応しいの」
ごぼごぼとリュミドラの喉が不快な音を立てる。喉に溜まった血液に溺れているのだ。だが、それすらも次第に引いて、元の若々しい女の声に戻った。
アルフレートはリュミドラを注視する。痛みを感じていないわけではなさそうだが、たちまち治癒するため、そもそも負傷を回避しようとする様子が見られない。そして、疲労や損傷を蓄積させているという手応えもない。
だが、アルフレートには退却という選択肢はなかった。覚悟を決めた瞬間、アルフレートは口角を歪めて不敵に笑う。
「……は。何を勘違いしているのかは知らないが、貴様はこの世で最も醜悪な化け物だよ。私の伴侶に選ばれると過信し、オフェリアやエリシュカと美貌で肩を並べられる気でいる辺り──本当に烏滸がましい」
リュミドラの顔にびきびきと青筋が浮かぶ。だが、その刹那アルフレートの視界からリュミドラの姿が掻き消える。標的を見失ったアルフレートは僅かに動揺した。
「な…………っ!」
横合いから伸びたリュミドラの手刀が銃を弾き、アルフレートの手から離れる。
そちらに気を取られ、アルフレートは女からは目を離してしまった。その一瞬の隙を突かれ、女に懐に潜り込まれた。
体勢を立て直す暇すら与えられず、気付けばアルフレートの喉に女の細い指が食い込んでいた。
リュミドラは一回り近く上背のアルフレートを、片手で容易く持ち上げる。アルフレートは女の手に爪を立て、両足で宙を掻くが、リュミドラの腕がぶれることすらなかった。
「私、とても悲しいわ。醜いなんて初めて言われたもの。でも、こんなに非道いことを言われても、あなたのことを嫌いになれない。それほどあなたのことを愛しているのよ」
「ぐ……ぁ……っ!」
苦しげに顔を歪めるアルフレートの顔が、赤みがかった紫の色を帯び始めた。
「でも、この期に及んでも尚、あなたの愛を独り占めしようとするエリシュカのことは大嫌いよ。あの女は殺すわ」
萎えかけていたアルフレートの闘志が再燃する。
アルフレートは残された最期の力で女を蹴るが、女は怯むどころが、虚しい抵抗を嘲笑うように微笑むばかりだ。
一度、二度と必死の抵抗を見せたアルフレートだったが、無情にも人の身の限界は早々にやって来た。
肺の中の酸素が尽き、視界が白み始める。
「──────」
かく、とアルフレートの下顎が力なく落ちた。
──やがてその身体は遂に完全に弛緩し、沈黙した。
リュミドラはうっそりと微笑むと、自ら唇に鋭い刃を突き立て少量の血を流す。それを舌で舐めた後、ゆっくりとアルフレートと口付けを交わした。
リュミドラは血液を含んだ唾液をアルフレートに含ませたのだ。
「ねぇ、私の旦那様。エリシュカのことを殺してきてくださらない?」
リュミドラはアルフレートに囁くと、ようやくアルフレートの首から指を剥がしてその身体を自由にする。
アルフレートの死体は、何の抵抗もなく床に投げ出された。とうに事切れて、今更動くはずがない。
──だが。
「……あああぁぁ……っ!」
アルフレートの指先が床を掻いた。低く獣のような呻き声を上げながら、のたうち回る。
臓腑が捻れ、心臓が燃えるようだった。身体の奥底が意思に反して変質していく。その痛みと恐怖が身体を突き動かしていた。
だが、それも唐突に終わりを迎えた。
アルフレートは静かに起き上がり、恭しくリュミドラの傍に跪く。
そして、アルフレートは求められるままにリュミドラの手の甲にそっと唇を寄せた。
「──我が伴侶、リュミドラ様の仰せのままに」
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