第30話 憂悶の盾、立願の短剣

「兄様!」


 数名の使用人に囲まれたアルフレートが足を止め、エリシュカを見る。陽光を溶かし込んだ金髪が優雅になびいた。


 その帰還に綻びかけたエリシュカの唇は、兄の有様を見てひくりと強張る。


 アルフレートは平民が好む綿の白い襯衣シャツ消炭色チャコールグレー胴衣ウエストコート、そして濃紺の脚衣トラウザーズという貴族らしからぬ姿である。しかも、襟飾りクラヴァットを着用しておらず、襟元の部分が無残に引き裂かれていた。


 彼の身体にはところどころ埃にまみれたと思しき汚れがついており、そこに普段の貴公子然とした姿はない。


 遅れて部屋から出てきたオクタヴィアン、マチルダも、社会的信用を失墜しかねない当主の姿に驚愕の声を上げた。


 先んじてアルフレートの姿を確認したセザールですら、心配そうにアルフレートを見つめている。


「エリシュカ……? オクタヴィアンの執務室で何を──」


「兄様……! 何があったの?! まさか……吸血鬼に襲われたの?!」


 エリシュカは悲鳴じみた声を上げながら、アルフレートに駆け寄る。


 だが、当のアルフレートはエリシュカの言葉を咀嚼しても、不思議そうに目を瞬かせるばかりだ。


「落ち着いてくれ、大したことはないから」


 アルフレートはそう言ってエリシュカを宥めるが、エリシュカはきっと眦を吊り上げる。


「……嘘! 服だって兄様のものじゃないでしょう! 何処に、何をしに行ってたの!? みんなとても心配したのよ!」


 怒りを抑えきれず、エリシュカは声を震わせながらアルフレートに非難を浴びせる。


 アルフレートはこの地を治める領主で、高位の貴族だ。やりたいことがあるのならばやればいい。行ったことに対する責任さえとれるのならば、誰もアルフレートの行動を咎めたりはしないのだから。


 だが、誰にも本心も目的も告げることなく秘密裏に動くのはどう考えても了見違いだ。


 咎められると思って黙っていたとすれば尚たちが悪い。問題があると分かっているのならば、皆で知恵を出し合い、八方丸く収めてから行動するのが筋というものだろう。


 アルフレートは居心地が悪そうに視線をあらぬ方向へと向けた。


「……オフェリアの指輪が持ち込まれている可能性があるから、盗品売り捌く業者の所へ立ち寄っただけだ。だが、いつもの服装では目立つだろう? だから商家の放蕩息子に見えるよう庭師に一張羅を借りたんだ」


 アルフレートは見るも無残な襯衣シャツの切れ端を長い指で掬った。


「……彼には申し訳ないことをした。弁償しないとな」


「放蕩息子……?」


「そう、借金の形に家宝の指輪を取られてしまった放蕩息子だ。指輪の造形をざっくりと伝えて、指輪を買い戻したい、金ならいくらでも出すと伝えたら、買い取り価格の五倍の額の謝礼金を要求されたよ」


 オクタヴィアンとセザールがぎょっと目を見開く。


「……まさか、お支払いになられたので?!」


 いや、とアルフレートは残念そうに首を振る。


「残念ながら持ち込まれた形跡はなかった。だが、そのやりとりを店内で聞いていた者たちがいたようでな。店を出た途端に絡まれてこのザマだ」


「まさか、寄ってたかって暴力を振るわれたの……?! お怪我は?!」


「どこにも、掠り傷の一つもない。……と言っても、この有様を見て心優しいお前は心を痛めてしまうのだろうな。……心配をかけて本当にすまない」


 エリシュカの言葉にアルフレートは、神妙な顔つきで答える。どうやら、妹たちに心配をかけたことについてはかなり反省しているようだ。


「……どこで何をしていたのかは分かったけれど、何故兄様がそんな場所について知っていたの?」


「裏には裏の情報網がある。少々金は使ったがな。……最初はエドワードに聞こうとしたが、断固として教えてくれなかった。まぁ……この有様ではその判断は正しかったと認めざるを得ないな」


 アルフレートは眩しそうに目を眇め、旧友への複雑な心境を語る。だが、それも長くは続かなかった。


「それよりも、吸血鬼に襲われた──とはどういうことだ? 私の留守中に一体何があった? ゆっくりでいい、説明してもらえるか?」


 アルフレートは化け物の影に怯えるエリシュカを安心させるように両肩を抱く。


 エリシュカは頷き、ぽつりぽつりと話し始めた。


 吸血鬼狩りが酷い手傷を負い、女子修道院に保護されたこと。彼が女吸血鬼の次の狙いはカタルジュと言って再び倒れたこと──そして、仲間を殺傷した恐れがあることも、全て包み隠さずに明かした。


 アルフレートはそれを一度として遮る事なく、静かに耳を傾けていた。


 やがて、全てを聞き終えたアルフレートは難しい顔で、家令オクタヴィアンの名を呼ぶ。すると、エリシュカの背後に控えていたオクタヴィアンが即座に一歩前に出た。


「今からでも、エリシュカを安全に首都に送り届けられるか?」


「兄様……!?」


 驚くエリシュカをよそに、オクタヴィアンは極めて冷静に懐中時計を取り出して現時刻を確認した。


 エリシュカはオクタヴィアンが動揺していないことに、更に驚愕した。


「……もう一時を過ぎておりますので……馬でお送りしても難しいと存じます。それに、運良く最終便に乗り込めたとしても、鉄道が遅延すれば道中に襲撃を受ける可能性もございますので……」


 アルフレートはそうかと呟き、おもむろに腰の後ろに手を回す。ぱちぱちと何かを外す音がして、エリシュカは初めてアルフレートが背中に何かを隠し持っていることに気付いた。


 やがて、アルフレートは鞘ごと短剣をエリシュカに差し出す。


 それは華美な装飾などの無い、実用的な短剣ダガーであった。剣身はエリシュカの手の大きさほどはある。


「今夜は城で過ごして、明日の朝一番に首都へ──吸血鬼狩りの協会ギルドへ行くんだ。これはエリシュカに預けておく」


 エリシュカは差し出された短剣を恐る恐る受け取る。


 エリシュカは今まで武器の類を持ったことはない。ずしりと重いそれは手に馴染まず、使いこなせる気がしなかった。


「これは……兄様が使ったほうがいいと思うわ」


 エリシュカはアルフレートに短剣を突き返すが、アルフレートは決して手を差し伸べない。


「お前には自分の身を守るための武器が必要だ。私は領地から離れられない。……傍にいて守ってやることが出来ないんだ」


「尚更受け取れない! ここに留まるなら、危険なのは兄様の方じゃない!」


 駄目だ、とアルフレートは取り付く島もない。


「──私にはもう、お前しかいない」


 水の膜が張っていないのが不思議なほど、アルフレートの碧眼は悲しみを湛えていた。


「生き延びてくれ。どんな絶望的な状況になっても生を諦めないでくれ。何かあれば私が必ずエリシュカを助けに行く。だから……どうか、私を一人にしないでくれ」


 ここまで自分の内情を吐露するアルフレートを、エリシュカは初めて見た。


 呆然とするエリシュカに、アルフレートは少し苦しげに微笑む。


「…………酷なことを言って、本当にすまない」


 これは呪いだ、とエリシュカは思った。


 今ここで兄に同意すれば、死よりも惨たらしい目に遭ったとしても、エリシュカは自裁さえ許されない。アルフレートのために戦い続ける宿命に身を落とすことになる。


 しかし、エリシュカは頷いた。それがアルフレートの願いならば、どうしても叶えてあげたかった。


 きっと、今まで優しくしてもらった恩を返す時が来たのだ。


「──いいのよ。私……頑張るから」


 エリシュカはどこか寂しげに、しかし、慈愛深く笑った。


 初代女子修道院長、聖女アグネッサを彷彿とさせる儚さにオクタヴィアンとマチルダは切ないものが溢れるのを堪えつつも見入る。


 いずれ離れる宿命の兄妹ならば、恐れずに歩み寄るべきだ──


 そうアルフレートを唆したセザールだけが、その光景から悲しげに目を逸らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る