第14話 虚ろの花筐、凶兆のひこばえ

 エリシュカは飛び起き、夜の帳に鎖された部屋を見回した後、恐る恐る顔を覆った。


 余りにも生々しい悪夢だった。


 エリシュカはオフェリアの棺の中を見せてもらえなかったが、夢の中のオフェリアの有り様は現実に近いものだったに違いない。


 聴取の後、オフェリアの遺体が蘇らないよう粛々と"処置"が行われたのだが、その場に立ち会うことが許されたのは、結局エドワードとアルフレートだけだった。


 遺体の状態が見られたものではないと言っていた遺族の言葉はあながち嘘ではなかったのだ。


 葬儀が全て終わった後、凄惨な遺体を見慣れているはずのアルフレートが取り乱し、慟哭していたのが胸に迫った。


 それほどまでに兄は強く、深くオフェリアを愛していたのだ──


 ──それなのに、どうして、こんなことに……。


 愛する人に置いて行かれたのはこれで何度目だろうか。その度に泣いて枕や袖を濡らすのは。


 夢に現れたオフェリアの姿を思い出してエリシュカは身震いする。


 オフェリアの姿は恐ろしかったが、それ以上に哀しくて堪らない。


 落命した花嫁は、夢の中ですら幸福を許されなかったのだ──



■□■



 結局、エリシュカは赤い徒花の幻影から逃れたい一心で、長い春の夜を寝ずに明かした。


 柔らかい寝台ベッドに身体を横たえていても、オフェリアの末期まつごは頭にこびり付いて離れなかった。


 不吉の影がちらつく度に神経は尖って眠りを遠ざけ、ついにそのまま朝を迎えたのである。


 エリシュカはネリーの手を借りながら、のろのろと艶のない漆黒のドレスに袖を通す。


 婚姻にこそ至らなかったものの、本来ならばオフェリアはエリシュカにとって義姉に当たる人であり、少なくとも半年は喪中に相応しい服装で過ごさねばならない決まりである。


 エリシュカの体調は完璧には程遠い。だが、幼少から叩き込まれた貴族としての矜持だけを胸に、エリシュカは背筋を伸ばして立つ。


 東風こちでぬるみ始めたばかりの空気を深く吸うと、少しだけ頭が冷えていくような気がした。


「お嬢様……やはり、お加減が優れないのでは? 本日はご無理をなさらず、お部屋でお休みになってはいかがですか?」


 ネリーはエリシュカの喪服の裾を整える手を止めて、心配そうに声を掛けてくる。


 エリシュカは少しだけ首を傾げてから、ごく小さく頷いた。


「そうね……どうせ今は何処にも行けはしないもの」


 貴族令嬢エリシュカには本来、孤児院や教会での奉仕活動という貴族としての義務が課せられているが、喪に服している期間はその限りではない。


 寧ろ、理由のない外出は故人への弔慰の欠如や、故人の吸血鬼化の遠因となるとされ、厳しい非難の対象となり得た。


 エリシュカは奉仕活動に熱心な方ではあったが、流石に昨日の今日で、孤児達に優しく笑いかけてあげられる自信はなかった。


「……かしこまりました。では……早速、朝食を召し上がられますか?」


 エリシュカは、少し困ったように笑う。


「……今は、食欲があまりないのよね。あまり重たいものは食べられそうにないわ」


「……まぁ。ですが、お身体のためにも根菜のスープと果物だけでもお召し上がりくださいませ。本日はいちごのコンポートがとても美味しく出来上がったそうですよ」


「……そうね。なら、少しだけ……」


 ネリーの善意に背中を押されながら、エリシュカは自室を後にする。


 朝だというのに、ヴィスコル城の廊下は薄暗い。防備に重きを置いているため、採光のための窓は小さく最小限の数しかないためだ。


 結婚式の前夜までは、あれほど精彩を帯びた色花で飾り立ててあったというのに、今は白い花の一輪さえ姿が見えない。それどころか、普段遣いの花瓶さえ全て片付けてしまったらしく、余計寒々しい印象が拭えなかった。


 全ては喪に服したエリシュカたちを気遣ってのことだろうが、エリシュカの部屋がある二階から一階の食堂までは短くはない距離がある。


 この陰鬱な空気の中を歩かねばならないというのは、さしものエリシュカも息が詰まるような思いがした。


「……後生でございます……!」


 突如として、陰鬱な空気を破ったのは老いて掠れてしまった声だった。微かに震えてはいるものの、拭い去れない優しい声色にエリシュカは聞き覚えがあった。


「今の声……ゼノ村長じゃないかしら?」


 ゼノはアルフレートの直轄地である、ガラ=ルミナスという村の長で、エリシュカとも少なからず親交のある老人である。


 エリシュカとネリーはつい好奇心を抑えることが出来ずに階段へと近付き、手摺に寄りかかるようにしてエントランスホールを覗き見る。


 がらんとしたエントランスホールに立っていたのはアルフレートとセザールであった。


 アルフレートは政治の場に出る役割があるために背広スーツの色は漆黒ではなかったものの、一目見て喪に服していると分かるよう、右腕には喪章を巻いている。


 エントランスホールの大扉は既に大きく開かれており、白髪の小柄な老人がくたびれた帽子を胸の前で握り締めたまま、アルフレートに向かって深々と頭を下げているのが見えた。


「お、お忙しい最中にも関わらず、貴重なお時間を賜りまして、まことに……まことにありがとう存じます」


 老人の声は震えており、しかも距離が離れていることもあって、エリシュカにはとても聞き取りづらい。何度も言葉がつかえるのは、果たして年齢のせいだけだろうか。


「口上は不要だ。……要件を」


 それが、と、ゼノは畏まった様子で口を開く。老いて落ち窪んだ目ではアルフレートの威容を直視出来ないのか、終始俯きがちであった。


「こ、この村では二名と、隣村では一名……そ、それと街では二名……それも年若い娘ばかりが五名……姿を、け、消したらしいのです……」


「何?」


 一夜にして数名の人間が忽然と姿を消すというのは、大きな街はともかく、長閑な農村においては由々しき事態である。


 アルフレートは色めき立ち、典雅な青年貴族ではなく、冷徹な軍人の顔になった。


「娘がいなくなったのはいつの事だ?」


「その……村人が申しますには、夜明け前に起床した時には既に娘の姿が見えなかった……と。その時は一足先に畑に向かい仕事をしているのかと思い、勤勉さを褒めこそすれ、特に怪しんだりはしなかったようでございます……」


「だが、畑には娘の姿はなかった、と?」


 ゼノはアルフレートの迫力に押され、額に浮いた汗を粗末な手巾ハンカチで拭った。


「は、はい……畑で作業をしていた様子もなく、先に外に出て作業に勤しんでいた人間も、その娘の姿は一切見かけていないと……」


「では、娘たちは夜中の間に忽然と姿を消したということだな?」


「さ、左様でございます」


「戸締まりに関してはどうだ?」


「そ、それが……家族が起きた頃には家の戸の鍵が開いておりまして。それで村人は娘が自発的に畑に向かったと思ったそうなのです」


「外から侵入した形跡はなし……か」


 耳をそばだてていたエリシュカとネリーは不審そうに眉を寄せる。


「……単に野良仕事に嫌気が差して逃げ出しただけ、というわけでは無さそうね」


 エリシュカがぽつりと呟いた言葉を受けて、ネリーが硬い表情のまま首を傾げた。


「ご家族が先に畑仕事に出たと勘違いしたくらいですし、本当に着の身着のままいなくなったということでしょうね……」


「それは自殺行為だわ。身元を保障するものも持たずに、一体どこに向かえるというの?」


「ええ……いなくなったのは年若い娘という話ですが、彼女たちもそこまで軽率ではないはずですよ」


 アルフレートも同じ事を考えているのか、難しい顔をしているようだった。もしかしたら、外部から侵入した形跡がないと言われたオフェリアの事件を思い出してしまったのかもしれない。


「それで、その……私どもも途方に暮れておりましたところ、と、隣村の村長が、自警団の若者を引き連れてやってきたのでございます……」


 ゼノによれば、隣村の人間たちも随分と憔悴した様子で、自分たちの村の娘がこちらにお邪魔していないかと探しに来たのだという。


 今はどこの村でも葉物や根菜の収穫期と小麦の種まきが重なる時期であるため、娘の捜索に人手を割けないことを恥じている様子であったらしい。


 そして、ゼノは少し話しにくそうにきつく帽子を握り締めた。


「その時に……隣村の村長が少々、気になることを申しておりまして」


「何だ?」


「か、彼も街の──ミラ=パドゥーレの代官様から話を伺っただけのようなのですが……」


 ひそり、とゼノは声を落とす。まるで他言すれば厄を呼ぶと恐れているかのような態度であった。


「近頃首都で……いえ、全国各地で年若い娘が失踪する事件が起こっているそうで。そ、それが吸血鬼の仕業だと言われていると。……も、もしかするとこの村の娘たちも……吸血鬼の餌食になったのでは、と──」

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