第9話 窮鼠、餓狼を噛む

「──以上が、ククタ・ヴィペラの証言となります」


 エドワードが厳粛に言葉を締めくくる。


 すぐに声を上げる者はおらず、祭具室は痛いほどの沈黙が支配していた。エリシュカを始めとする全員が指先一つ動かすことなく、瞬きすら忘れてしまったかのように呆然としている。


 エリシュカはちらりと最愛の兄の様子を窺う。アルフレートは最前から俯いたまま一言も発さない。エドワードの話がよほど堪えたのだろう。


 ──けれど、それも仕方のないことだわ。


 愛してやまないオフェリアがこれほどに父親から軽視されていたなど、アルフレートは知る由もなかった。


 しかし、だからと言ってアルフレートが──ひいてはエリシュカがオフェリアのために何の助力もして来なかった言い訳になるだろうか。


 しかも、今となっては、その術さえ永遠に失われてしまったのだ。


 エリシュカが睫毛を震わせた瞬間、一陣の風がうねりを伴って静謐を鋭く引き裂いく。突如としてアルフレートが子爵に詰め寄り、その胸倉を乱暴に掴んだのだ。


 兄の呼吸は不規則で荒く、エリシュカはいつか国境の山で見た手負いの餓狼を思い出す。


 アルフレートの瞳は世の理不尽を一身に受けた獣と同じ、恐ろしく剣呑な色をしていた。


 子爵は苦しげに喘ぐが、彼を助けようと駆け寄る者などいない。妻である子爵夫人でさえ、感情の見えない目で子爵を見つめるだけであった。


 それまで従順に子爵に従っていたのは、オフェリアの名誉を守るためであり、子爵の悪辣な暴言まで庇い立てする気は更々無いということだろう。


「に……兄様……」


 エリシュカだけがアルフレートの理性に訴え掛けるようにそっと声を掛けたが、それは子爵を心配してのものではない。


 この下臈のために兄に手を汚してほしくなかっただけだ。


 尤も、アルフレートはエリシュカの声など全く耳に入っていない様子だった。

 

「実の娘が亡くなったというのに……慰謝料を払いたくない? 家門の名を傷付けたくない……?」


 アルフレートは子爵の身体を薙ぎ払う。勢いよく後方に突き飛ばされた子爵は受け身もろくに取れずに背中から壁にぶつかり、そのまま崩れ落ちるように尻餅をついた。


 子爵は見苦しく足をばたつかせて、怒れるアルフレートからどうにか逃れようともがいている。


「どれほど性根がねじ曲がっていれば、そんな言葉を吐けるんだ……?」


 アルフレートの声は不気味なほどに静かで、どこか踏み越えたような危うさすらあった。


 子爵を見下ろす瞳は無慈悲な輝きを宿しており、彼の命を冷静に値踏みしているようにも見える。


 エドワードがいち早くアルフレートの異様な雰囲気を察知し、彼から子爵を庇うように立ち塞がる。


「辺境伯閣下、お気持ちは痛いほど理解致します。ですが、警部補という立場でここに来た以上、これ以上閣下を"あちら側"に踏み込ませるわけには参りません」


 アルフレートはエドワードを一顧だにしない。エドワードの背後に庇われた子爵にしか興味がないのだ。今は怒りも殺意も、全てが子爵に向けられている。


 この場にいるだけのエリシュカですら兄の殺気に当てられて、足が竦んでいる。一介の貴族の女性でしかない子爵夫人も似たようなものだろう。


 寧ろ、この場にいてエドワードが根気強く踏ん張っていることのほうが驚嘆に値するほどだった。


「──アル、ここは堪えてくれ。頼む。友人としてもお願いする」


 理性的な訴えではアルフレートを動かさないと悟ったのか、エドワードはかつて旧友であった頃のように気安い言葉で話しかけ、頭を下げる。


 アルフレートはそれでも子爵から目を離さずにいたが、子爵を睥睨したままエドワードの肩に触れた。それをもって怒りの区切りとしたようだった。


「……君が謝ることではないだろう。……顔を上げてくれ。友に頭を下げられるのはむず痒くて堪らない」


 アルフレートが漸く子爵から顔を背けたことで、その場にいた子爵以外の全員が詰めていた息をほっと吐き出す。


 辛くもアルフレートの怒りを逃れた子爵は、これ幸い立ち上がって夫人の後ろまで下がる。


 しかし、盾にされた夫人は、紳士にあるまじき夫の姿に顔を紅潮させ、人目を憚らず子爵の頬を張った。


 乗馬鞭を振るったような乾いた音に、エリシュカは思わず首を竦めた。


「……あなたは死者の名誉を傷付けた。その罰を受けるべきだわ」


 夫人はそう言うと、自らエドワードの前に進み出て屈膝礼カーテシーを取る。


 本来、王侯貴族の女性が目上の者に見せるお辞儀であり、貴族出身とはいえ既に平民となったエドワードに対して膝を折る必要はない。


 事実、エドワードは困惑したように夫人を見つめるばかりである。


「……大変申し訳ございませんでした。娘の名誉を守るためとはいえ、私どもは到底許されないことを致しました。……処分があるのならば、いかようにも」


 エドワードは、一連の流れが夫人の事実上の降伏宣言であることに気付いたようだった。


 夫という権力に縛られていた夫人が、今その支配から逃れたのだ。そして、良心に従い官憲に自らの罪を告白すると宣言したに等しい。


 夫人の心変わりを目の当たりにして、子爵は頬を押さえたまま、わなわなと震え始めた。


「……くそ……どいつもこいつも、余計な事を言いおって……! 何故女は時勢というものが分からん?! 何故家門のために奮闘する私を、更に苦しめるような真似をが出来るのだ!」


 子爵は口惜しそうに唇を噛みながら、頭を掻き毟る。その間も目を見開き、周囲を威嚇し続ける姿は、さながら、猫に追い詰められた溝鼠のようだった。


 エリシュカが子爵の見苦しい姿に、ほんの僅かに柳眉寄せた、その瞬間である。


「……何だ、お前」


 子爵はこの場で最も立場の弱いエリシュカに鋭い視線を向けた。

 爛々と輝く目は既に狂人のそれであり、エリシュカの柔肌のどこを喰い破ろうか、じっくりと見定めようとしているかのようだった。


 恐ろしくないと言えば嘘になる。しかし、エリシュカは目を逸らさなかった。従順は貴族女性の美徳だが、気高さすら失っては元も子もない。──子爵夫人のように。


 しかし、そんなエリシュカの心根が、子爵の逆鱗に触れた。


「何を見ている! やめろ! その目を私に向けるな!」


 子爵は憎々しげに唸りながら、エリシュカへと近付く。


 エリシュカは反射的に身構えたが、アルフレートとエドワードが間に立ちはだかった。


「時勢というものを知らず、余計なことをしたのは貴方の方だろう、ラザレスク卿」


「子爵閣下、貴方が指輪の紛失を隠蔽しなければ、我々は速やかに指輪の捜索に着手出来ていた。その行いは著しく捜査を妨害するもので、到底看過することは出来ない」


 二人に責められた子爵だったが、とうとう開き直って眦を吊り上げ、口角泡を飛ばしながら喚き始める。


「黙れ、黙れ! 私は! 貴族として正しい振る舞いをしただけだぁ!」


 子爵は怒りで震える手でアルフレートを指差す。


「辺境伯閣下──いや、アルフレート! 貴様は私に感謝するどころか、批判するのか?! この恩知らずが!」


「私が貴方に感謝することなど何もない」


 子爵はアルフレートを嘲るように笑う。


「分からないのか? それとも理解したくないのか? 私だけが貴様の体面に配慮してやったのだぞ!」


 子爵は腹立ち紛れに乱れた髪を更に掻き乱した。


「私が! 娘の自殺について口を閉ざしていたからこそ、貴様は今までただ婚約者を失っただけの哀れな男でいられたのだ! 他人の同情を恣にして、さぞ心地良かったことだろうな!」


 余りの言い草に絶句する面々だったが、エドワードだけが、静かに義憤に燃えていた。


「子爵閣下。辺境伯閣下に対して随分とお言葉が過ぎるようですが、ご自身の言動に責任を取る覚悟があってのことですか?」


 穏便に子爵を制止しようとしたエドワードだったが、子爵は身分差を指摘されたことに苛立ち、記録机を掌で殴打する。


「……平民の分際で、貴族に対して言葉が過ぎるぞ。他人を嗅ぎ回ることしか出来ん俗物めが」


 アルフレートは指先が白くなるほど拳を握った。最愛のオフェリアだけでなく、友人までも愚弄されたことで、彼の理性は最早限界を迎えつつあるのだ。


 だが、子爵はこの場で優位を保つことに必死なのか、アルフレートの異様な雰囲気に気付いていない様子だった。


 ──いけない! これ以上あの男を増長させては……!


 エリシュカは子爵に向かって手を伸ばそうとするが、それよりも一瞬早く、子爵の唇がこれ以上なく醜く歪んだ。


「何が辺境伯閣下だ! 政略結婚の相手に文字通り死ほど嫌がられるような、つまらん男ではないか! こんな若造に頭を下げていた自分が嫌になる!」


「あなた……! もういい加減になさってください!」


 子爵は辺境伯への無礼を咎める夫人を睨み付ける。子爵は壊してもいい、都合のいい玩具を得た子供のように、残酷な笑みを浮かべた。


 ──やめて。


 何故、あの男はこんなにも優しい人たちを、平気で傷つけられるのだろう。何故──


「オフェリアもオフェリアだ! この程度の男に振り回されて死を選ぶなど……我が娘ながら、無様極まりない!」


 ──何故、実の娘の名誉を平気で貶められるの?


 その刹那、エリシュカは心の中で、何かが砕けた音を聞いた。


 薄氷の様に美しい宝石オフェリアの尊さが無残に踏み散らされたのだと理解した瞬間、かつて美しかったものの残骸がエリシュカの瞳からとめどなく零れ落ちていた。

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