第5話 世界が見る夢
「あかね? 早くしないと置いて行っちゃうよ?」
廊下から催促に、私も慌てて部屋を出る。すると、階段で私を待っていたパチモンがそれを認めるや、まるで滑るように階段を駆け下りていく。
「ちょ、ちょっとパチモン早いって。てか出かけるんならせめて寝癖くらい直させてよ」
後を追って階段を下りた私に、パチモンはぴらぴらと尻尾を振る。それから私に向かって飛びあがり、そのまま器用にも肩に乗る。
「パチモン?」
「寝癖なんて気にしなくて大丈夫だよ。それにあかねは今のままで十分にかわいいしね」
ぽんぽんと髪に触れたパチモンは、勢いよく飛び降り玄関ドアの前で立ち止まる。
「さすがにこれは重くて僕には無理なんだ。あかねにお願いするよ」
「てかさ、今更だけど、こんな夜中に出て行っちゃってお母さんたちに怒られないかな?」
「本当に今更だけど、それなら気にしなくても大丈夫だよ。きっと僕ら以外はぐっすり夢の中さ」
「そう? それなら別にいいんだけど……」
パチモンの言葉に一抹の不安を覚えながらも、通学用のローファーに手を伸ばしたところでパチモンが「あ、そういえば」と声を上げる。
「靴は動きやすいのにした方がいいと思うよ。フットワークは軽いに越したことはないからね」
そして、こんなことを言うものだから、私は掴みかけたローファーから手を引っ込める。それから、動きやすい靴となると普段履きのスニーカーかとシューズボックスに向かったところで、ふと違和感を覚える。
だが、その違和感の原因がどこにあるかに気付くより早くにパチモンが急かすものだから、私はシューズボックスの扉を開け、とりあえずにと一番履きなれたスニーカーを手に取る。
扉を閉め、再び立ち上る違和感。それはスニーカーを履き終え、玄関のドアを開けても残り続け、そうして外に出たところで、気が付いた。
「ねえパチモン?」
幾分静かに玄関の鍵をかけてから、声をかける。私の数歩先で「どうしたの?」と振りむく姿に、先の違和感の原因を聞いてみる。
「うちの玄関のシューズボックスってさ、でっかい鏡が付いてるよね?」
我が家のシューズボックスは玄関への据え付け式で、上下二段の扉で別れた靴入れ部分と、その脇に幅は狭いが上下二段分が続きになった一枚扉が付いた長物入れ部分とで構成されている。その一枚扉の部分が全面姿見になっていて、毎朝の通学前にはそこで身だしなみの最終チェックをするのが習慣となっている。
今しがたは急いでいたとあって姿見に向き合っての確認はしていないが、それでも下段の扉に手をかけた時に、視界の端に姿見は入っていた。そして、その視界の端に映っていた景色こそが、違和感の所以だった。
気づいた瞬間は、それでもなお気のせいだと思った。なぜって、ありえないからだ。しかして思い出す光景に、気のせいではないと思えてしまう。なにせ、気のせいで片づけてしまうには、あまりにわかりやすすぎるのだ。
「今ね、私、鏡に映ってなかったんだけど、なんでかな?」
普段ならばありえないパチモンとの会話。存在しない時間と、鏡に映らない姿。
まさか、私は――導き出されていく答えに、急激に血の気が引いていく。
それなのに、パチモンは「またか」と言わんばかりにため息を見せつけ、ぷいと前に向き直ってテクテクと歩き出す。
「ちょっと、パチモン?」
慌てて後を追うも、パチモンは小走りに駆け出し、駐車場の車の脇に停めてある自転車の前かごに飛び乗るとすっぽりと収まる。
「ほらあかね、早く早く。自転車出して」
両の前足を振り上げ、肉球でかごの縁をべしべしと叩く。私は仕方なく自転車を出し、サドルに跨る。
「まずは駅に向かってくれるかな」
「ねえパチモン? 私の言ったこと聞いてた? さっき私――」
言われるままに漕ぎだした私に、パチモンは前かごの中でこちらを振り向くと「もちろん聞いてたよ」と言葉を被せる。
「鏡に映らなかったって、そんなの当たり前だよ」
「当たり前って、それじゃやっぱり」
「あかねが何を考えてるのかはなんとなく予想がつくけど、それについてはまったくもって見当違いだから安心していいよ?」
「そうなの? でも、それじゃどうして映らないの?」
「そんなの決まってるじゃないか」
住宅地から通りに出る交差点でブレーキをかけ、一時停止する。まずもって車は来ていないだろうが、普段からの習慣というやつだ。それからあらためてペダルに力を込めると、前かごでパチモンが「ふふ」と笑う。
「鏡も今は眠っているのさ」
「眠っている? 鏡が?」
下り坂に差し掛かり、漕ぐのを止めた自転車が滑らかに速度を上げていく。
「鏡だけじゃないよ。空も、風も、家も、街も。僕らはこうして起きているけど、他はみんな眠っているのさ。つまりね、今のこの時間、世界は夢を見ているんだよ」
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