第2話
◆◆◆ 第2章 失われた家族のかたち
——あの最初の死の夜より、ずっと前の話。
物語は、一家の時間が止まる前へと静かに戻る。
◆ 村井家の時間
村井和也と美沙。
二人がようやく娘を授かったのは、どちらも32歳のときだった。
医者には何度も、
「精液検査の結果、自然妊娠は……」
と告げられた。
胸を裂くような言葉。
それでも互いを責め合わなかった夫婦のもとに、
突然訪れた奇跡。
——優花。
祝福という言葉では足りなかった。
和也は図書館司書。
美沙はスーパーのレジ勤務。
目立たず、誰にも迷惑をかけない静かな生活。
休日には三人で川沿いへ行き、
美沙の弁当を広げ、
優花は芝生を裸足で駆け回った。
「ママ、みて! 四つ葉だよ!」
「わあ、本当だ。幸運が来るね」
そんな、なんでもない瞬間を、
夫婦は宝物のように大切に胸へしまうように生きてきた。
◆ 高校二年の夏——最初の異変
違和感を最初に覚えたのは美沙だった。
ある日の夕飯。
優花はカレーに手をつけず、スマホを握ったままテーブルに座っていた。
「優花? 具合悪いの?」
「……大丈夫。食欲ないだけ」
その声は乾いていて、
娘らしい温度がどこにもなかった。
翌日も、その翌日も、
優花はスマホを手放さず、表情は硬いままだった。
「学校で何かあった?」
美沙は何度も訊いた。
そのたびに優花は少しだけ笑って、同じ言葉を返す。
「ほんとに大丈夫だよ」
だが、その“ほんとに”のたびに、夫婦の胸には見えない針が刺さった。
◆ 三人の少女
学校行事の写真にいつも写っていた三人。
• 加藤玲奈
• 一ノ瀬加奈子
• 中山真子
明るくて、常に笑っていて、
放課後には優花とアイスを食べている姿を見たこともあった。
しかし高校二年の終盤から、
その三人の名前が、優花の会話から完全に消えた。
美沙は気づいていた。
——そこから、娘の表情が少しずつ淡くなり始めたことを。
◆ 高校三年の秋——最後の日
その日、優花は学校を休んだ。
昼休み、和也は嫌な胸騒ぎがして職場を抜け出し、急いで帰宅した。
玄関に置かれたローファー。
揃えられたまま、動いた気配がない。
冷たい風が背筋をなぞる。
二階へ駆け上がる。
「優花!」
部屋のドアを開けると、
開きっぱなしの窓から冷たい風が吹き込み、カーテンが揺れていた。
机の上。
画面の灯ったままのスマホ。
そこには——
知らないアカウントからの連続メッセージ。
《お前のせいでみんなイラついてんだよ》
《全裸土下座だな》
《学校来んなよ》
《裏切り者》
《消えろ》
そして最後に開かれていたメッセージは、
——真子から。
《さよならでいいでしょ?》
その文字列を見た瞬間、
和也の膝から力が抜けた。
美沙が駆け上がってきて、
崩れ落ちるように優花の机にしがみついた。
それが、村井家の時間が止まった日だった。
◆ 葬儀の後の空白
葬儀が終わっても、日常には戻れなかった。
和也は図書館で本を並べ続けたが、ジャンルも順番もバラバラだった。
ただ並べているだけ。
その度に『優花が好きだった童話の位置はどこだったか』と考え、動けなくなる。
本を手にしても、優花の体温や匂いを求めるように胸に抱く。
美沙は料理を作り続けたが、
味を感じることも、匂いに反応することもなかった。
優花の部屋はそのまま残された。
机の上のスマホも、
最終通知を灯したまま。
夫婦は、その画面を開けなかった。
開けば壊れてしまうから。
◆ 週末の夕暮れ、海斗が訪れた
優花の従兄弟、海斗(中学生3年)。
年齢より大人びた目をしていた。
「伯父さん……これ、渡しに来ました」
白い封筒。
中には、スマホのバックアップを印刷した大量の紙。
和也は震えた。
「海斗くん……どうして……」
海斗は淡々とした声で言った。
「全部、復元しました。
削除されたDM、投稿の時系列、優花姉ちゃんの最後の一年……」
「……スマホだけじゃなくて、
クラウドのバックアップや、学校のWi-Fiログも確認しました。
削除しても、“通った跡”は残るんです。
だから、どれだけ隠そうとしても、全部辿れます。」
美沙は息を呑んだ。
海斗は、一枚の紙を和也の前へ滑らせる。
タイトル:
《いじめの順番表》
• 加藤玲奈:拡散・嘲笑の“最初の火付け役”
• 一ノ瀬加奈子:深夜のDM連投、精神追い込み
• 中山真子:優花が一番信頼していたのに裏切り、情報を流した指示した“実行者”
そして最後の行。
《優花の精神が崩壊していった順》
夫婦は言葉を失った。
海斗は表情を変えずに続ける。
「……順番は、決まっています。
優花姉ちゃんが一番最初に傷つけられた場所から、最後まで。
僕はただ、それを並べただけです」
その静けさが、妙に恐ろしく響いた。
◆ 家庭訪問
翌週。
秋雨の中、インターホンが鳴った。
「こんばんは。担任の佐伯です。
優花さんのことで……少しお話を」
和也と美沙は驚いた。
優花の死後、佐伯が訪ねてきたのは初めてだった。
居間に通すと、佐伯は深く頭を下げた。
「突然すみません。
最近、生徒が亡くなった件が続きまして……
優花さんのことも、ずっと気になっておりました」
美沙は紅茶を出し、平静を装い言う。
「……ありがとうございます」
佐伯の視線は、ふと
居間の隅に置かれた優花のスマホへ向いた。
(……あれか)
彼の視線がわずかに揺れた。
「もし……彼女の残したスマホを
見せていただけるなら……
少し整理のお手伝いができるかもしれません」
和也は、心の奥にひっかかりを覚えながらも、
スマホを差し出した。
佐伯は画面を撫でるように触れた。
「……電源が……まだ入るんですね」
その声は優しげだった。
だが、その指先は異常なほど丁寧で、執拗だった。
(ここか……ここに、全部詰まってる)
佐伯の胸の奥で、
何かがゆっくりと目を覚ました。
「少し……家で見させてもらっても?」
和也が戸惑っていると、美沙が言った。
「お願いします……
私たち、怖くて……触れないままなんです」
佐伯はゆっくり頷いた。
しかし玄関を出て
雨の中、佐伯はふと笑った。
(いただいた……)
彼の手の中にあるスマホには、
加害者一覧
DMの削除跡
優花の予約投稿
海斗の復元データ
全てが詰まっている。
(これは……美しいよ、優花さん)
佐伯は、深い闇の中へ歩いていった。
夜。
久しぶりに、夫婦は優花の部屋へ入った。
机の上の海斗がプリントアウトしてくれた紙の束。
最後に開かれていた“さよならでいいでしょ?”の文字。
美沙はゆっくりと呟いた。
「……和也さん……
私たち、このまま……何もできないで生きていくの……?」
その声は弱いが、
核に火がつく寸前のようだった。
和也は椅子に座り、紙の束を手で覆った。
「……守れなかった。
気づけなかった。
その罪は、一生消えない」
美沙は黙って頷いた。
和也は、これまでの人生では使ったことのない声で言った。
「けど……
優花が壊されていった順に、終わらせることはできる」
美沙の瞳が震えた。
「……やりましょう。
あの子が受けた順番で……終わらせる」
夫婦の声はとても小さかったが、
静けさこそが決意の深さだった。
◆ 佐伯先生の過去
同じ頃。
高校の職員室で、佐伯はニュースを見つめていた。
《十代女性、深夜に急死。事件性なし》
(……はじまったな)
佐伯は誰にも言っていない前歴を持っていた。
机の引き出しの奥に指を伸ばした。
白い手袋の感触。
革の内側に残る、微かな消毒液の匂い。
——二十代前半、特殊清掃会社で嗅いだ匂いと同じだった。
孤独死、事件、自殺。
「片付け」の後に残るのは、
いつも、解体されたような生活の断片だけ。
人間の身体も、生活も。
精巧で、美しく、そして簡単に分解できる。
という事実だった。
皮膚の下で脂肪が層で剥がれる感触。
関節が逆方向に抜ける音。
(……完璧だ)
誰にも言えなかった感動。
そのまま心の奥に沈めた。
教師になり、
優しい化学教師として振る舞ってきたが、
内側の衝動は消えなかった。
玲奈のニュースと村井夫婦の態度を見て確信する。
(優花の件だな)
そして、
(なら、俺にも出番がある)
机の上の白手袋を撫でながら、薄く笑った。
—————このときすでに、佐伯は
残り2人の少女の住所・通学ルートを独自に調べ、
静かに調査を始めていた。
その視線が、数日後の夜を狂わせることになる。
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