復讐のベクトル

奈良まさや

第1話

《予約投稿を送信しますか?》


夜の部屋に、スマホの白い光だけが浮かんでいた。

画面の上には、優花の名前。

その下に、一行だけ。


《本当に助けてほしかったのは、最後まで誰だったと思う?》


送信予定時刻は、

優花が死んでから、ちょうど一年後の夜八時。


「……押しますか?」


従兄弟の海斗が、無表情のまま問いかける。

隣で、母親は泣きながら頷いた。

父親は、肺の奥が潰れるような痛みを抱えたまま、ただ画面を見つめている。


——この一行がタイムラインに流れたとき、

まだ誰も知らない。

すでに「復讐の順番」と、「切除される大人たち」が決まっていることを。


優花がいなくなった夜から始まった、

静かで、止められないベクトルの向きを。



◆◆◆ 第1章 静かな雨と、最初の死



東京都あきる野市。

十月の終わりを告げる弱い雨が、住宅街の屋根に静かに打ちつけている。


夜八時。

駅前の薄暗い路地で、古いワンボックスカーがエンジンを止めた。

黒い塗装、歪んだボディ。

ナンバーは擦れていて、判読しにくい。雨粒が流れ落ちていく。


車内には二人。


村井和也(50)。

図書館司書らしい穏やかな顔。

ハンドルに添えた手はまったく震えていない。


隣の妻、美沙(50)。

小柄で、普段は柔らかい主婦にしか見えない。

だが今は、微かな呼吸だけが、その内側の異物感を語っている。


「……来るわ」


美沙が言った。


小さな傘を差した若い女が、雨の路地を足早に歩いてくる。

制服の名残があるような幼さ。

濡れた髪が頬に張りついている。


加藤玲奈(19)。

建築現場の事務員。

高校卒業後も、地元から離れなかった。


和也はヘッドライトを点けず、ゆっくりとドアに手をかけた。


「いいか、美沙。

 ……ここからは、息を合わせるだけだ。」


美沙は、震えない声で答えた。


「ええ。……順番どおりに。」


その一言が、まるでスイッチの音のように車内に落ちた。


◆ 拉致


玲奈が家の角を曲がった瞬間、

ワンボックスカーが雨を切って動いた。


すれ違いざま、ドアが静かに開く。

和也の腕が伸び、玲奈の口を塞いだ。


「っ……!」


悲鳴は雨に溶け、一滴も外へ漏れない。

美沙が手早くスプレーを口元に押し当てる。


クロロフォルムの匂いが、夜気を割る。


玲奈の体が崩れる。

折り畳み傘が路面に滑り、カラン、と音を立てた。


「……大丈夫、まだ息はある」


美沙は脈を確かめ、頷いた。


和也は、濡れた玲奈の身体を抱えて車内に引き入れた。


窓の外では、住宅街の灯だけが、何も知らずに光っている。


◆ 殺害


車は、あきる野から檜原村方面へ向かう。

雨が強くなり、フロントガラスを叩く。


玲奈は意識を失ったまま、後部座席の足元に横たえられていた。


和也は小さな注射器を取り出す。

中に透明な液体。


「……これで、苦しまない」


美沙が、玲奈の腕をそっと押さえた。


針が皮膚に沈む。


ニコチンは、強心剤のように心臓を一瞬だけ暴れさせ、

次の瞬間、完全に止めた。


玲奈の胸が、ぴたりと動きを失う。


和也は静かに目を閉じた。


「……一人目」


美沙も、祈るように手を握りしめた。


「優花……見てる?」


その声は、雨音にかき消えそうなほど小さかった。


◆ 遺棄


山道に入ると、街灯はもうない。

車のライトだけが、林の影を揺らす。


和也は車を止め、ブルーシートを広げた。


玲奈の身体は軽かった。

十九歳の少女の体重ではないほど。


「この子……痩せているわね。大人しそうなのに、あんな酷いことを」


美沙の言葉に、和也は頷かない。


二人は無言で遺体をシートに包み、林道の奥へと運んだ。


霧のような雨が降り続けている。


寝かせる場所を整え、そっと玲奈を置く。

雨が土を濡らし、匂いを消していく。


「……これで終わり」


和也が呟いた。


「この子は優花と同じ死という罰を受けた」


美沙は、その言葉に深く頷いた。

その表情には、後悔も恐怖もなかった。


ただ、沈黙の安堵だけ。


◆ 帰り道


車を走らせながら、美沙が言った。


「……順番、次は誰?」


和也は言葉を選ぶように返す。


「……海斗くんが調べてくれた優花にとっての順番だ。

 まずは、あの子。

 ……酷い投稿を更に拡散した。」


美沙の喉が小さく震えた。


「じゃあ……次も、優花の傷の順番で?」


「……ああ。

 優花の最後の一年の苦痛と無念を辿るんだ」


雨音だけが、後部座席の暗闇を叩き続けた。


◆ 翌朝


ニュースが流れた。


《十代女性、深夜の山道で遺体発見

 外傷なし・病死の可能性も》


画面の隅には、「警視庁が詳しい状況を調べています」のテロップが小さく流れている。


和也は画面を見つめたまま、目を閉じた。


美沙は息を吐く。


「……ばれないわね」


「ばれないよ。

 優花が……守ってくれてる」


そこには、夫婦の泰然とした確信だけがあった。


◆ 同じ頃、別の場所


職員室の片隅。

化学の教師、佐伯はニュースを、無表情で眺めていた。


(————加藤玲奈か。もしかしてあのイジメと関係あるのか)


彼は指先で机を軽く叩いた。


(そうだ。だとすると順番はまだ始まったばかりだ)


目を細め、笑みを噛み殺したまま、彼は仕事に戻る。


村井夫婦に会いに行かなければならない。

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