丘のうえの魔女。(2200文字)

柊野有@ひいらぎ

🌙月の影

🌙月(改稿:3000文字)

 下弦の月が低く夜空に浮かぶ静かな夜。シューマン共振が断続的に途切れ、私は連日睡魔に襲われていました。地球が混沌の渦を巻く、洗濯機のなかでかき混ぜられるような日のことでした。


 夕日がきれいだった金曜日、私の大事な物語と楽しむ時間に向かうとき。


 スマホが鳴り、手にすると娘ふたりの写真がチラリと見えました。

 同級生の元夫、永治エイジからの相談の連絡でした。すでに夜は更けています。


『ちょっと時間ええかな?』

「いいよ」

『丘のうえのハンニバル・レクターに、相談したい』

「聞こうか」

『愚痴になるけど』

「……物語で、書いちゃうけどいい?」

『まあええよ』


 中学からの友人の娘ハナコの話でした。ハナコは借金に窮し、エイジのグループ会社の社長にまで金の無心をしていました。エイジはすで数百万を貸しつけ、雇用主兼スポンサーとして彼女の労働力と生活を握っています。何が理由で、そこまで貸したのかは知りません。社長には「金を渡すな」と釘を刺したそうです。


 彼女は、日本全国を巡って推し活に没頭していました。先日、仕事のシフトを放り出し、何日も連絡が途絶えたと聞きました。飲みに出かけると、毎度酒の肴となっており、一部始終を聞き、病気だなと思いました。なぜか彼のもとには、こういったひと癖もふた癖もある社員が集まるのです。


『俺は怒ってへんし、金が返せんときは待つからなって何度も言うたわ。報告ないままいなくなるのが、一番困る』

『なるほど。それで、どうしてお金を貸したのかな? それはまた推し活に使われるだけでしょ?』

『まぁ、それはええやんか』


 家族環境は、大柄でスポーツ万能な夫婦。仕切り上手で推しが強い、酒好きの自営業の夫、スラリと可愛らしく呑気な奥さん、という組み合わせ。ただ父親は酒に溺れがちで、家庭では罵詈雑言、暴力が当たり前だったとのことです。


 三人兄弟の末っ子が、問題の娘ですが、たびたび娘のことを馬鹿だと言い、手が出ている、というのを聞いていました。本人が小さい頃から知っていて、面倒見の良い、よく喋る元気な子でした。家の中では、暴力にさらされ、逃げ上手で口達者。一見、やり手風に見える話ぶりで、ハキハキと動きも素早い。

 エイジは彼女から泣きつかれて、弁当屋のリーダー職を与え、家も与え、駅のスポット販売を任せました。借金については、父親である友人にも伝えたが、怒られるのはわかっているから、娘は実家には寄りつかない。


 ハナコについて話がある、と金の無心は断った社長から連絡がありました。

 エイジは先回りして友人の奥さんに打診したが、「社長からは借りていない。カードの請求はある」と、事態の重大さに気づいていない様子。


 ままよ、と社長に連絡すると、新たな問題が。今回辞めるスタッフ女性(62)が、ハナコらに厳しく詰められ、さらに悪いことにハナコは彼女からも、多額の借金をしていた、と告発されたのです。「退勤して訴えるらしい。これをどう解決する?」と問われたのでした。


『どう思う?』

「精神病院一択だね」

『ここまできて、それかい』


 推し活が原因で借金が止まらない。ホストにハマる姫や、ドラッグと同じでしょ。

 ホストでナンバーワンになるような人は、普通の人間ではないの。ものすごく大きな穴が空き、ブラックホールみたいに吸い込む。似たタイプの人を惹きつける。見てる分にはいいけど、人じゃない。生きてるドラッグだよね。


 それで、お金じゃぶじゃぶ使って、それでも欠落感は消えない。モラハラの父親がいるなら、相当な切り替えができなければ、弱い人間に攻撃の矛先を向けるかもしれない。


 今ハナコさんは、穴のなかにいる。言葉は、1ミリも届かない。華やかな明るい方へ向かうけど、妄想の世界、日常を反転して闇にしてる。依存症、かな。専門家を頼って、断酒会みたいなプログラムを家族ぐるみでやらないと、変わらないんじゃないの。

 

 リアルを生きてないでしょ。親が、現状を認識して病院にでも放り込んで隔離しないと変わらないところまで来ているのでは。唯一の光が推し活なら、薬を断たないといけないけど、誰もそこを指摘しないし、怒るだけで、根っこの問題を見ないよね?依存症は、怒っても説教しても変わらない。

 家族の問題は、一番弱いところに出る。

 でも、今や、その弱かった人は、そうではないかもしれないよ? 本当のところは、どうだろうね……。


『そうか。ちょっと刺さったわ』

「ところで、相手は、なんて言うグループ?」

『聞いたことないわ。女の子のグループらしいな、三組いる』

「気持ちの昇華のための活動かもね。アイドルを自分に置き換える。アイドルは太陽、自分は、月。自分を守るために」

『消化ってなんやねん』


 スマホの向こうで、笑っているような気配。

 ……私は、彼女を同情する立場ではない。でも、一応言っておく。


 消化じゃない、昇華。ネガティブな感情を、ポジティブな行動や活動に転換すること。心理学でいう『防衛機制』だね。

 あちこちから借りた借金が、無意識下で相当ストレスになってると思う。今の仕事は指導や、指示する立場で、重めの仕事。未来も見えない。推し活で身を捧げることが、自分が輝くことに置き換わってる。


「だから、ハナコ両親を説得して、専門家の指示を仰ぐといいと思う」

『そうか……じつは、さっき、その嫁さんから連絡があってな。ハナコがこっそり家に帰ってきて、へそくりくすねて走って逃げたらしいんや。「捕まえろ」って、父親が暴れて、晩飯と皿が散らばってるんやて』

「隔離一択だね。放置しようとしてる君は、ある意味サイコパス。いつから、自分が正常だと思ってた?」

『いやいや、こんだけ手を尽くしてるのに、なんで俺が悪者よ?』

 彼は深く息をついた。


「良かれと思って、本人たちの問題を先送りさせてると思う。任せてる仕事だけど、負担ありすぎじゃない?」

『仕事は、できてるで』

「今、彼女の脳みそはね、借金の算段でリソース半分以上は持っていかれてるよ。どんなにコミュニケーション上手の天才でも、苦しくなる。心理用語でイネイブリングって言うんだけど、問題を肩代わりせず本人に戻す。専門家に連絡。落ち着いて考える時間を、あげるといいと思う。だけど、もうそんな時期でもないかもしれない。人からお金を借りるのでなくて、ただ人が自分の言う通りに動くのに快楽を覚えてるかもね。それは、本人がドラッグそのもの」

『うわあ。そうやなぁ。ちょっと考えるわ』

「さて。丘の上のハンニバル・レクターからは、以上です」


 夜風が抜けていく丘のうえで、すべての人に穏やかな朝が来ることを願った。

 

 近所の専門店で買ってきたキリマンジャロの豆をミルで挽く。小さなキッチンに香りが立ちこめた。お気に入りのポットで湯を沸かし、大きな益子のマグカップにドリップしたコーヒーを注いだ。やわらかい苦味を伴った香りが、鼻を通り過ぎていく。


 世間の揺らぎなど、本当は私に関係ない。人と人の境界線は大切だ。ラインを決めなければ、時間を際限なく奪われる。


 私は、凪の状態を楽しんでいる。踊りたい人は踊っているだけ。それを、選んでいる。  


 いつものように断らせないように、私の時間に侵入してきたエイジを許したが、コーヒータイムで、切り離した。期待は、していない。


 コーヒーを楽しんだあと、私は、この話を書いた。

 書いたあとは、定着させて忘れることができる。

 私は私の時間と、凪の時間を守る。

 それでいい。



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