第22話 星野白狼

10月


帰り支度をすませ、昇降口に並ぶと、瞬時に白浜の腹の虫が悲鳴を上げた。


――ググギュギュグギュ――!!


慌ててそこを抑えて真っ赤になる白浜。

確かに、昼抜きで寝とおしたんだ、腹が減るのは仕方がない。


だが、まるで恐竜でも飼っているかのような腹の音に、俺は盛大に笑い転げた。


「しょーがないだろ!朝からなんも食べてないんだ!!」


これ以上笑うなと、ケイの蹴りが愛おしい。

俺は出てきた涙を拭いながら、まずは腹ごしらえだと、軽い足取りで昇降口を後にする。


ケイはショルダーバッグの中で、ドライフードで口を大きく膨らませ、”モッモッモッモッ”と食べている。


白浜の口も、金平糖で大きな膨らみを見せ、こちらは”ガリボリガリボリ”と通常運転。


「かはっ!」


その二人(匹)に俺はまた吹き出した。

――幸せだ……。

そう感じずにはいられない。


「ドライブスルーで、ハンバーガーでも食べるか?」


俺の提案に白浜は飛び上がって喜ぶ。それを見たケイもなんだか嬉しそうだ。だがきっと、この中で一番心が跳ねているのは俺だ。


俺の愛車の指定席に白浜とケイを乗せ、目当てのハンバーガーショップへ車を走らせる。

これから、重い話をしようとしているのに、俺の心は晴れやかだった。


ご所望のハンバーガーとポテトとコーラ。そのベストコンビネーションに白浜の口の中はどこまでも膨れ上がった。


「ちょっと、遠回りしてもいいか?」


「ん?どこ?」


「俺のお勧めスポット!」


ハンバーガーショップの駐車場から出ると、高速で30分ほどの、ダイビングスポットまで車を走らせる。


海が見たいと思った。

チキンな俺の背中を押してくれる。そんな気がした。


既に夜の顔を表した空と、行き交う車のテールランプ。空いている道に踏み込むアクセルもどこか優しい。


白浜は、助手席の窓を少しだけ開けて、舞い込む風を浴びている。

その膝の上には当然のようにケイがくつろいでいた。


俺はまるで天気の話でもするかのように、ポツリと口火を切った。


「俺さ。小1から水泳やってて。何度か大きな大会でも優勝してて。白浜みたいな記録保持者じゃないけど、それでも強豪校の推薦で大学に行ったんだ」


「……うん」


驚くと思っていた。俺に意外な経歴があると。だが白浜の反応は既に知っているかのようだった。そういえば妹の彩に拉致られたとき、なんか言われてたなと思い出す。


「大学3年のとき。あることがきっかけで水泳を辞めた……。それから、今年の3月まで水泳には一切関わっていなかった。逃げてたんだ。水泳を連想させる全てから……」



辿り着いたのはスキンダイビングで行く岬の入り江。既に日が落ち、月が輝くこの時間は、人の影は見当たらない。


路肩に車を停めると、磯の香りと眼前に広がると海に気分が上がる。

シートベルトを外し、微動だにしない白浜を不思議に見たとき、その蒼白な顔に俺は驚いた。


「どうした?気持ちわりーのか?」


『起きたあと強い倦怠感や吐き気が出ることもあるから』


西畑先生の言葉が蘇る――。

俺は慌てて白浜の背中をさすった。


「大丈夫か?辛いか?吐きたかったら吐いた方がいい」


俺は白浜の目の前に両手を差し出す。それを見た白浜がフッと笑った。


「センセー。さすがにそこには吐けないよ……」


小さく笑う。

だがやはり顔色がよくない。まだ、口元が小さく震えている。白浜は目元をぎゆっと閉じて、大きく息を吐いた。


大きな目が仄暗く染まり、足元が固まっている。腕に抱いたケイが心配そうに白浜の頬に触れていた。


「……車酔い。……センセー、なんで海?」


「あぁ。なんとなくカッコ悪い話すんなら、少しでも気分の上がる場所がいいかなって……。だけど戻るか?席倒すから休んでもいいし」


俺がリクライニングのバーを操作しようとしたとき、白浜は「大丈夫……」と、それを止めた。

その手がかすかに震えている。


「無理するな。俺には我慢しなくていい!」


白浜の目が少しだけ大きくなり、そしてそっと目線を下げる。


「……うん。大丈夫じゃない…。だからここでいい…?」


ケイは白浜の胸元に何度も顔を擦り寄せた。何やら白浜を落ち着かせようとしているみたいだ。


「……大丈夫。ありがと……」


白浜はケイに優しく囁き、その頭を撫でた。

「ピぃ」ケイの鳴き声はいつもよりも小さくて弱々しい。


「分かった。ここにいよう」


俺は助手席のシートベルトを外し、足元に自分の上着をかける。白浜はゆっくりとお礼を溢した。


白浜は深く息を吸い、それを吐き出す仕草を数回繰り返すと、俺の方を見てもう大丈夫だと頷いた。その様子に俺はポツリポツリと話し始める。


「白浜は俺がゲイだってことは知ってるよな?」


石田に問いかけた内容と同じ。俺の言葉に驚いた様子の白浜が、少し困惑げに静かに頷いた。


「――知ってるってゆーより、人伝に聞いたってレベル……」


歯切れの悪い言い回し。

まぁ、話しやすい話題ではないなと、俺も「そーだったな…」と小さく返した。


俺をゲイだとアウティングして嘲笑っている生徒らに、白浜が喝を入れて怒ってくれたのがそもそもの出会いだ。あの件から俺を嘲笑するヤツが少なくなった。


「……まぁ、噂どおり、俺はゲイだ」


そう言うと、「うん……」と、小さな声が返ってきた。


「高校1年の夏。俺はクラスメイトに恋をした。そいつはカメラが趣味で、良く一眼レフを首に掛けてはいろんな写真を撮っていた。あいつの撮る写真は全てが綺麗だった。その一枚に俺の写真があった。泳いでるときの、俺の写真――」


秋の風に潮騒の香りが混ざり鼻腔をくすぐる。


「それがきっかけで、仲良くなった。何で一枚だけ俺の写真?なんて聞けなくて。淡い期待を懸命に押し込めた。そいつは運動は苦手なのにヒトの欠点や癖を見抜くのが上手で。気が付いたら俺の一番の理解者になってた」


「水泳やめたのに、その人が関係してんの?」


真横から降り注ぐ声に、俺はじっと足元を見下ろした。窓から吹き込む風が俺の髪を揺らした。


「――水泳を辞める引き金にはなった。でも、辞めたのは俺の決意。なのにあいつは責任を感じて……」


あのときの情景が思い出され、俺はギュッと目を瞑った。会話が途切れたのに白浜は先を促すことも尋ねることもなく、じっと待ってくれた。


ケイも動こうとはしなかった。ナイトのように白浜に寄り添っている。


「――大学3年の夏。オリンピックの強化選手候補に選ばれ、スポンサー契約も寸前だったとき。俺の初恋が奇跡の開花を見せた。俺のサポーターとして一緒に進学したあいつに告白された。俺、嬉しくてさ。初めての恋人にのぼせ上がった――」


真横の視線が熱い。まだ顔色の戻らない白浜だが、眼光は熱く俺を射抜いていた。


「あいつの部屋に入り浸りになって、練習が疎かになって、タイムが落ちて、監督からも見放されて。でも、コーチだけは真剣に俺に向き合って間違いを正そうとしてくれた……」


俺は心の動揺を諌めるように、呼吸を整えた。


「そんなとき、俺の恋人が男だってことがスポンサーの耳に入った」


「え?どーして?」


顔色の悪い白浜は、俺を見上げて困惑な声を出した。


サワサワサワ――。

秋風が俺の頬を掠めていく。


「写真が出回った。二人で手を繋いで歩いてるとこの――」


「はっ!?なんだそれ!普通じゃねぇか!好きな人と手を繋いで歩くなんて、当たり前じゃんかっ!」


「――そうだよな……。当たり前なんだよな……。でも違ったんだ。男同士だと違った」


小さく笑ったつもりが、うまく笑えなかった。指先が少し震えていた。


「んだよそれっ!周りが変なんだ!ふざけんなよっ!」


人は自分よりも動揺したり怒ったりする人を見ると冷静になれるという。俺は過去の自分よりも怒ってくれている白浜に冷静さをもらう。


あのとき。こいつがいたら、何か違っていたのだろうか……。そんな非現実的なことを考えてしまった。


「ありがとな、白浜。編入したてのときも、そうやって怒ってくれたよな。…俺のために。ありがとう」


「そんなの当たり前だろ!センセーは何も悪くねぇもんっ!」


白浜の言葉は単純で、真っ直ぐで、残酷なくらいに優しい。


「あはは。実はそーでもねぇんだ」


俺は視線をフロントガラスの向こう側へ目を移した。海は暗闇をただ静かに受け止めている。


「俺さ、そんな後でも親身になって心配してくれたコーチに八つ当たりしてさ。スポンサーが敬遠してるから、恋人とは別れてくれって、正論を吐くコーチの言葉が全て悪辣に聞こえて。……殴っちまった」


「へっ??」


白浜が、信じられないという顔で目を丸くする。その目が、俺の過去を真正面から見つめる。


「それからは散々だったよ。コーチの機転で緘口令は敷かれたものの、殴った拳の怪我で大事な代表決めの大会は欠場だし。スポンサーは呆れて契約の話を白紙に戻すし。あいつは責任感じて学校を辞めちまうし。俺は全てに絶望して泳ぐの嫌いになるし。ホント、俺、何やってんだろうな……」


喉が、少しだけ、かすれた。

言葉にするだけで、あの鈍い痛みが拳に戻ってくる。


「――センセーは、一生懸命、恋をしてたんだよ」


白浜の声は柔らかい。怒りでも、同情でもない。

ただ真っ直ぐ俺を見て、ちゃんと受け止めて、そこから紡いでくれる。


「真っ直ぐに、真剣に。ただそれだけ。殴ったのはあれだけど、まぁ、ウチも人のこと言えねぇけどさ。普通のことして、普通に怒って、普通に泳ぐのがイヤになっただけだ」


白浜は少し息を吸い、言葉を続けた。その目は、泣いた後みたいに赤いのに、綺麗に澄んでいる。


「だけどさ。やっぱり星野白狼の本能は”泳ぐこと”が好きなんだよ。2年前にダイビング始めたのだってそーだろ?それに知ってるか?センセー」


白浜は、いつもの笑い方で笑った。嬉しいと泣きそうの間の、あの笑い方で。


「センセーはウチが泳いでるとき、スッゲー!幸せな顔すんだぞ!泳ぎ嫌いなヤツがそんな顔できっかよ!」


――光だ。光がさす。俺のどん底で絡み合ったドス黒い感情が、その光で浄化される。浮かび上がり、そうして上空で弾けた――。


「――ヒーロー参上だな、マジで……」


澄み切った空気と空と同じような言葉が、綺麗な潮騒に消えていった――。



帰り際。

シートベルトを閉めて、膝の上のケイを撫でながらまどろんでいる白浜に、今がチャンスだと決心する。


「あのさ。今のうちに言っとくけど」


「ん?」


俺は一呼吸おいて、助手席の相手を凝視した。


「俺、ゲイだって言ったけどさ。いつの間にか、強烈な女子高生に持ってかれてっから!」


「へ?」


俺は白浜を指差してぎこちなく微笑んだ。

その言葉に白浜はクリクリの目をグリグリに大きくさせ、何やらぐるんぐるん考え始めた。そのあまりにもの様相がおかしくて、俺はプハッ!と吹き出す。


「ゲイの??」


「ん?」


思考の行き着く先がそこかと、俺はタラーっと冷や汗を流す。


「ゲイの女子高生!?」


白浜が何やら神妙な顔をするもんだから、俺は慌てて「おいおいおいおい」と止めに入る。


「アホか!今はゲイから離れなさいよ。なんだよ、ゲイの女子高生って」


「へ?」


「ってか、前から思ってたんだが、白浜って周りに同性愛者がいんの?」


あまりにもフランクに受け入れるもんだから、身近にそういう人がいるのかと考えてしまう。それくらいこいつの空気は当たり前なのだ。


「え?……石田?でもちゃんと本人から聞きてないし。いんのかなぁ」


またしてもぐるぐる考え始めたもんだから、とりあえず戻ってこいと、その話を他所にやった。


「まぁ、知ってたけどさ。白浜蛍さんは偉大ですよ」


「え?なにが?」


俺は真横のキョトン顔の白浜をズイッと見下ろした。


「俺さ。”強烈な女子高生”って言ったよな?まずは”ゲイ”から思考を変えてくだい。さぁ、俺の周りにいる強烈な女子高生とは誰でしょーか!」


「えー」


何やら不満そうな声を出して、白浜はまたしても「うーん」と考えている。よほど自分とは思っていない相手に、意外とショックを受ける。


少しは気付いていると思っていた。結構な頻度でスキンシップしてたから。手ぇ握ったり、ハグしたり、ポンポンしたり。


他の生徒にはしとらんだろと突っ込みたい。それに、木瀬と石田にはマッハでバレてるのに。あまりにもの鈍感さに、いささか不安になる。


数秒経って、白浜の口が「あっ」と漏らす。

その声にドキッ!と心臓が跳ねた。


「柔道部の」


「ちっがーーーうっっ!!!」


あまりにも明後日方向の白浜に、俺が盛大に声を張り上げると、トロンとしていたケイが驚いて、俺の指をガチッと齧った。


小さな痛みに手を振りながら、眉根を下げた状態で白浜を見やる。当の白浜は、俺の視線を見て「えー!ヒント〜」っと、何やら不貞腐れていた。


あぁ、これは一筋縄ではいかないなと、この雰囲気に乗じて告白しようとしたことを反省した。

まだ、教師と生徒だ。いかんいかんと、理性を取り戻した俺は車のエンジンをかけた。


「ねー、強烈な女子高生って誰だよー。持ってかれたって何をだよー」


「はっ??」


あー。こいつ。そもそもの根底から間違ってる。意味を全く理解していない。比喩が伝わらない。


俺は一気に体力を奪われ、「あー。もう、柔道部ってことでいーです!」と、おざなりな言葉でいじけた。


「んだよ!感じわりー!なぁ、ケイ」


「ピィー!」


二人(匹)が目を合わせて俺の文句を言いはじめた。


あぁ。こんなんがずっと続くといーな。

俺は軽快に飛ばしながら、何やら温かい気持ちで口元を緩ませる。


「ちゃんと言うから。白浜蛍に。だから待っててくれ」


キョトンとした白浜だったが、何やら考えたあと、好戦的に口角を上げた。


「まぁ、なんか分っかんねぇけど、センセーが待ってって言うなら、いつまでも待つよ!」


「ピピっ!」


頼もしい言葉と、ケイの鼻息が、誓いの証のように綺麗な夜空に輝きを放った。

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