第9話 俺を頼れよ

7月


急に俺の名前を呼ばれた瞬間、一気に体中の体温が下がる。


数メートル後ろに立っていたのは、かつての水泳部のマネージャーだった。その横に見知らぬ女。俺の背中から嫌な汗が流れ、張り巡らされた血管が凍る。


「あ、やっぱそうだ!先輩だ!お久振りです」


「え?星野先輩って、あの高3のとき全国で優勝した?」


胃の中身が逆流してえづきたくなるのを懸命に抑え込む。


「あー。久しぶり……」


上手く言葉が出ない。今までどんなことを話していたかも思い出せない。


ドクドクドクドク。


俺の心臓が嫌な軋みを伴う。


「水泳部のOB会、今も続いてるんですよ。みんな、星野先輩と連絡がつかないって言ってました」


「……悪りぃ。スマホ壊れちゃって――」


「そうなんですね!なら、今から交換しませんか?」


そう言って後輩がにじり寄って来る。

――息が、息が苦しい。


――そのときだった。


「ウチの大切な人に手ぇ出すな!」


その閃光のような凜とした声に、鼓動が正常の速さに戻る。胸に感じる違和感や痛みすらも一気に消えてしまう。


カート置き場から戻って来た白浜が、俺の目の前に立ちはだかりその二人を威嚇した。


「逆ナンですか?それとも元知り合いですか?」


「えっ?」


同級生の驚きの声か耳に戻ってきた。

ギロっと睨む白浜の圧に、目の前の二人は息を呑む。


俺は嬉しくて震える口元を押さえもせず、白浜を後ろから抱き寄せて、元後輩の二人を笑顔で見下ろした。


「悪いっ。そういうことだから!じゃっ!!」


「えっ!星野先輩!?」


俺はもう振り返らず、真っ直ぐに俺を助けてくれたヒーローを連れて車へ乗り込んだ。


車を目的地へ向かって走らせると、白浜が目を吊り上げて叫んだ。


「センセー!嫌なときは嫌だってちゃんとハッキリ言えよ!!」


「あはは。そーだよなー。わりぃわりぃ」


目をキッと吊り上げる、その顔が異様に可笑しくてブッと吹き出してしまう。


「なっ、なんで笑うんだよっ!」


俺は穏やかな目をチラリとそのヒーローに向けた。


「いや、嬉しくて。つい思い出し笑い。『ウチの大切な人』ってカッコ良すぎ!」


ボンっ!!!


白浜は一気に真っ赤に染め上がり、ポリポリと耳の後ろをかく。

ニヤけている俺の態度がムカついたのか、白浜は一気に不機嫌な様相になった。


俺はその様子に今度は温かな笑みを溢した。


「悪い、白浜。俺さ、嬉しくてさ。守ってくれてありがとう」


ちょうど信号でとまったときに、素直に頭を下げると白浜は急に狼狽して頭を横に振った。


「ちょっ!センセー。頭上げてよ!……てか、さっきの人たち、センセーのこと”先輩”って……」


「一人は明鳳高校水泳部のマネージャー。……俺さ、あんま水泳にいい思い出なくて…。地元の奴らにも会いたくないから、避けてた……」


信号が青に変わりアクセルを踏む。

カッコ悪い自分に白浜がどんな顔をしているか、確認する術のない今の状態が丁度いい。


いっときの沈黙。それを破ったのはどこまでも透き通る声だった。


「なら、ムリすんなよ。買い出しなら何処でもやれんだろ!ウチ、行くから。センセーの大丈夫なとこまで、走って行くから!」


力強い、救いの声。『なぜ?何で?』そんなこと、全く気にしていない。

俺の情けない気持ちがその光に救われる。目頭が熱くなり、俺は必死に奥歯を噛み締める。


「走んなよ……。俺を頼れよ……」


「ん?」


俺のチキンな小さな声に白浜が聞き返す。俺はそれには返さずに、今の気持ちを正直に言葉にした。


「――嬉しかっんだ。お前との買い出しが」


「え?」


「無理してでも行こうと思った。一歩踏み出そうって勇気もらえた。だから、あんがと!」


「えっ!?」


驚き顔の白浜の頬が段々と赤く染まる。何かを問いかけようとする白浜の小さな手の上に、大きな手を重ねる。


白浜の手元がビクンッと反応したのが分かった。クシャッと目元を綻ばせながら、どこまでも続く青空に俺は声を張り上げた。


「今日はホント、アッチーな!!!」





BBQ会場の駐車場に車を停めると、そこには既に部員達が待ち構えており、あれよあれよと積んでいた荷物が空になっていく。


どこまでも機嫌の良い俺は、アウトドア好きの両親に叩き込まれたワザを披露し、周りから拍手喝采を集めた。

瞬時に炭をおこしたグリルに次々と材料を並べて行く。


「みんなー!飲み物は持ったー?」


灰原が配膳係の如く皆の手元を見て回る。全員に行き届いていることを確認すると、そのバトンが俺に渡される。


「じゃあ、今日の立役者の星野先生!乾杯の挨拶をお願いします!」


その声に拍手で促され前に立たされた俺。俺はプラスチックコップを手に取り青空の下、声を張った。


「えー、では!」


「おっさんくせーぞお!」


チャチャを入れたのは木瀬。周りから笑いが起こる。チラリと白浜を見やると、同様に笑っていた。俺の気持ちが高揚する。


「お前らから見ればおっさんだからいーだよ!来月はインターハイ。8年ぶりの快挙だ!この素晴らしい年に顧問になれて心から嬉しく思う。お前たちなら必ずやってくれる!俺は全身全霊で応援する!明鳳高校水泳部!乾杯っっ!!」


「かんぱーい!!」

「ウウォーー!!!」

「星野ン!!」

「いーぞー!!」


水泳部が一致団結し、雄叫びを上げた。


ジューーー。


香ばしい匂いと、夏の音と共に、総勢22名のBBQ大会が乾杯と共に幕を開けた。



俺の焼いた肉を白浜が美味しそうに頬張る。満面の笑顔が振り撒かれる。俺はどこまでも上機嫌に肉や野菜を焼いていく。


そのとき。

俺の尻ポケットに入れていたスマホがブルった。画面を見ると”彩”との表示。

俺は焼き場のトングを部員に渡し、少し離れたところでその電話に応対した。


「どうした?」


『お母さんが、差し入れ持ってけって!今、駐車場にアイス持って来てるから、ダッシュで取りに来て!』


”アイス”との言葉に、側にいた部員に断りを入れると、俺は慌てて駐車場に向かって直走った。


――結構な全速力で走った俺は、駐車場を見渡す。そこには確かに彩のラパンが停まっている。だが、中身の人間がいない。


「彩ー!!」


大きな声で叫ぶも、その声に応える者はいない。俺はスマホを取り出し電話を掛ける。

アイスが溶けてしまわないかそれだけが心配だった。だがその呼び出しの相手は出る気配がない。


俺が訝しがってスマホを見つめいてると、遠くから「星野ン」と呼ぶ声が聞こえた。


その方角を見ると、水泳部の部員二人が駐車場目掛けて走ってくる。

驚いて距離を詰めると、その中にいた橘が息を切らしながら叫んだ。


「星野ン!先輩が!綺麗な人に!」


「えーっと、先輩が、星野ンの家内に拉致られた!」


橘の言葉を繋いだのは同じ2年の男子部員。拉致られたという言葉に俺の眉根が上がる。


「落ち着いて説明しろ。誰が誰に拉致られたんだ?」


その二人の肩を撫で、俺は”家内”という意味を理解できないまま、相手を落ち着かせることに専念する。


ある程度落ち着きを見せた橘が深呼吸をして、言葉を整理した。


「さっき、アイスを差し入れに来た綺麗なお姉さんが、”ウチの白狼と買い出しに行ったのは誰?”って聞いてきて、手を挙げた白浜先輩の手を引っ張って、土手を登ってどっか行きました!」


直ぐにそれが彩だと分かった。ここに俺を呼んで行き違いを作ったのか。俺の額に無数の青筋が浮かぶ。


「木瀬先輩は大丈夫だった言ってるんですが、みんな動揺して…」


「分かった。ありがと。なら、俺が連れ戻してくっから、皆んなはアイス食って待っててくれ」


「え?食べていいの?」


驚いた顔の橘はいつとより幼く見えた。俺はそれにカハっと笑った。


「それ、俺のお袋の差し入れ。んで、それ持って来たヤツは俺のいもーと!」


「「えっ???」」


二人の声が共鳴する。それを尻目に俺はスポーツマンの称号を掲げるかの如く、猛スピードで土手を駆け上がった。


橘が土手を上がって右手に行ったと言っていた。


その先にあるのは遊歩道。その一角にベンチが設けられていたなと、俺は真っ先にそこを目指した。

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